昨日書いたこととも、繋がってくるんだけど、僕が日ごろ、今の日本の一番の問題だと思うことは、「訊きたいことが訊けない」「当たり前のことが訊けない」ということだ。
「どうしてなの?」「それをそうすることで、僕たちは具体的にどうなるの?」「それは、誰にメリットがあって、誰にデメリットがある行為なの?」そういう、根本的な問題が訊きにくくなっていて、どうでもいいような、枝葉の部分への知識ばかりが大量に提示される。
昨日書いたこととも、繋がってくるんだけど、僕が日ごろ、今の日本の一番の問題だと思うことは、「訊きたいことが訊けない」「当たり前のことが訊けない」ということだ。
「どうしてなの?」「それをそうすることで、僕たちは具体的にどうなるの?」「それは、誰にメリットがあって、誰にデメリットがある行為なの?」そういう、根本的な問題が訊きにくくなっていて、どうでもいいような、枝葉の部分への知識ばかりが大量に提示される。
何かを口にするとき、僕は、必ず恐れが付きまとう。コレクトなアンサーに近い範囲の言葉を、発することが出来ているだろうか、という恐れである。だけど、最近、ふと考え直して、世の中には、コレクトなアンサーなど、存在しないのではないか、と思うようになった。僕が、ある物事に対して、あることを感じたなら、そして僕が、ふざけていないなら、そこには、僕の経験から培われた、僕なりの、ある視点が立脚しているということなのだ。僕は、アカデミズム/反アカデミズムという、単純な二項対立からはみ出すことを恐れすぎていたのではないだろうか。二項対立では語れない、他の視点が、必ずしも、批判されるべきではありえない。僕は、もっと、様々な言葉を、自由に、『ある視点』として、素直に、語るべきではないのか。 と、思い、例えば、とあるラウンジミュージック集について、「これは一種のジャズだ」といいたくてたまらないけど、きっと、その発言の意味がわからない人たちから非難されるであろうことが、怖くて何も言えない僕がいる。本当は、戦前のジャズの流れから、イージーリスニングは派生しているといえなくもないし、カクテルピアノ的なものから、ムード音楽、ラウンジ音楽にも、系譜は繋がる。そういう、モダンジャズとは違うジャズのことを、僕は語っているのだが、きっと、理解しない人たちはたくさんいて、僕を非難するだろう。そう思うと、やはり、『いい子』でいたくなる。僕の口は、カタツムリのように閉じる。
ずっと前の授業で、H先生が、「ゴダール研究の非常にいい位置にいるとある人は、在野なんだ。在野だから、賞はもらえないけどね、でも、それぐらいの仕事はしている」と言っていた。
そのことが頭にこびりついて離れない。
ポール・サイモンの全然有名じゃないけれど、タイトルがすごくいい歌に「メイビー・アイ・シンク・トゥ・マッチ」というのがあって、要するに「俺、考えすぎかな?」って意味だ。
僕も、あれこれと考え込んでは迷路に入り込んでしまうタイプで、大学生の頃友人に、「君は哲学者かよ」と言われたこともあって、不毛だよなぁ、でも、いろいろと考えるのは止めらんねーんだよなぁとか思ってきた。 それがだんだんと、「考えすぎかな?」よりも、「求めすぎかな?」のほうが、僕の中の大きなテーマになってきて、『どのレベルまで主張するべきか』というラインの見定めに、よく思い悩んでいる自分がいる。
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