言葉ってのは不思議だな、と思う。
言葉にすると、急に、自分の思考が他人に見える状態になる。
しかも、言葉で、思考の本当の思考全部を、言い表すことが出来ない。
僕たちは、もやもやと考えていることを、ほんの一部選択して、それの体裁を整えて、言葉として差し出す。
すると、言葉になった思考が、その人の意見になるし、他人は、それがその人の思考だと思うし、その人も、それが自分の考えていることなのだと、自答する。
だがしかし、そこには、こぼれた思考、形にならなかった思考、形として整えるために、無意識的に捨てた思考が、どこかに残滓として揺らめいているだろう。
本当は、言葉にしても、しなくても、ある人が考えていることそのものは、存在しているという問題もある。
言葉として提出すると、それは、他人に見えるようになる。
だが、言葉として提出しなくても、考えていることはたくさんある。
もちろんそれらは、見えないので、他人にとっては、存在しない。
※
話は変わる。
衰退してしまう店、繁盛している店がある。
町をよく歩いていれば、その違いが、なんとなく、見えてくる。
その中でも僕の目を引くのは、本当は、良い店なのに、人が寄り付かない店だ。
そういう店は、取りこぼされてしまう傾向を持つ店なのだろう。
人が、店に入ることを選択する場合、意外に、理解できるか出来ないか、が、重要視されているように思える。
何かを買ったり、飲んだりするのに、リスキーじゃないかどうか。
それが選択基準に入り込んでくる。
だから、人は、「わかりにくい、理解しにくい店には、ふいに入らない」のではないだろうか。
「この店はどうなんだろう、当たりか、はずれか」と悩んで、入ってみると、なんだ、良いじゃないか、ということは多々ある。
僕は、ふらりと知らない店を訪ねるのが好きだから、いいのだが、今多くの人は、悩むと、入らないのではないだろうか。
そこを改善していかなければ、地域の振興は、ある意味では難しいかもしれない。