はっとり浩之オフィシャルブログ

2010年5月9日

求めすぎかな(学生時代についての覚書)

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 1:27 AM

ポール・サイモンの全然有名じゃないけれど、タイトルがすごくいい歌に「メイビー・アイ・シンク・トゥ・マッチ」というのがあって、要するに「俺、考えすぎかな?」って意味だ。

僕も、あれこれと考え込んでは迷路に入り込んでしまうタイプで、大学生の頃友人に、「君は哲学者かよ」と言われたこともあって、不毛だよなぁ、でも、いろいろと考えるのは止めらんねーんだよなぁとか思ってきた。 それがだんだんと、「考えすぎかな?」よりも、「求めすぎかな?」のほうが、僕の中の大きなテーマになってきて、『どのレベルまで主張するべきか』というラインの見定めに、よく思い悩んでいる自分がいる。

 僕はいったい、求めすぎているのか、それとも遠慮しすぎているのか。

遠慮をしているうちにあれよあれよと、遠慮なしにものを言う人に欲しいものを奪われてしまうことはあるし、一方で、思ったことを口に出したら、思わぬ攻撃にあうこともある。

大学生の頃、僕は大学院に行きたくて行きたくて、でも、僕は統計分析の能力があまり高くはないことを自覚していたから、なかなか「院に行かせてください」と教授に言う勇気が出なかった。

 卒論でちゃんとしたものを示して、示しをつけてから言おうと思っていたら、ものすごく時間がかかってしまって、結局ある程度めどがついてから「院に行きたいんですけど」と言うと、「もう遅いよ」と一蹴されてしまった。

あの時は、すごく悔しくて、その上、教授に就職について相談をすると、「君はのめりこむ芸術家肌だから、陶芸家にでもなれば?」と言われて、すごく腹が立ってしまった。

もちろん、陶芸家という職業を貶めるという意味ではなく、どういう文脈で考えても陶芸家という職業が飛び出してくるはずがないので、腹が立ったのだ。

 このとき、僕は教授に対して文句を言おうか、言うまいか、と相当に悩んだ。

 結局、言わなかったのだが、口に出さなかったことで、数ヶ月間ずっと腹が立ちっぱなしで、何をしても身が入らなかった。

でも、今になって考えれば、僕は文句を言わないでよかったな、と思う。

何はともあれ、教授にはずっと迷惑をかけてきたからだ。

 ※

 そんなわけで、情報学部を出たけれど、情報学部の大学院に行く気はすっかりと失せてしまった。

どうしよう、あんなふうに一蹴されて、情報学部の院に行くのは、情けなさ過ぎるな、と思い、改めて文学部の門をたたいた。

僕はどうにも、勇気の足りない部分があって、とにかく大学院に行きたくて行きたくて仕方がなかったのだが、情報学部を出ているのに、急に文学部の扉を叩くのが、恥ずかしくてしょうがなくて、数ヶ月間ずっと迷っていた。

 勇気を出して、気になった教授にアポイントメントを申し込む旨のメールを打つと、返事が来なくって、さらに気持ちは萎えて崩れてしまった。

 何とか気を取り直して、もう一度メールを打つと、やっと返事が来て、僕はH教授の聴講生になった。

半年ほど聴講生をさせてもらったのだが、情報学部生だったのが、文学部の院に行くことについては、根本的な不安が消えなかった。

 院進学を決めたのは、当時ゼミにいた松本さんという人が、帰り道で、僕に何気なく、H教授のことを誉めたからだった。

「生徒にこんな風に、本人がいないところでちゃんと誉められるということは、本当にその先生は良い先生なんだな」 と、深く感銘を受けたのだ。

僕は、教授がいない場所で教授のことを誉めている人を、はじめて見たのだ。

僕が総合情報学部にいた頃、生徒は、教授のいないところで教授の悪口ばかり言っていた。

それはそれで、僕は、生徒が悪いとは全然思っていない。

やはり、大学の教授というのは、どこかしら、社会経験がないためか、常識が欠落している部分があって、理不尽なことを言う人がよくいる。

そういう部分について、生徒は、本人がいないところで悪口を言うのだ。

それはもう、仕方のないことだ。

また、授業の内容に関しても、生徒たちはみんな、よく文句を言っていた。

これは、教授によっては、自分の研究が大事で、授業をおろそかにする、という人がいるからだ。

「あいつの授業は適当すぎるぜ、何にも身につかん」 というようなことは、みんなで集まってよく話していた。

当時僕が、とにかく足りないと思ったのは、情報学について、通史的なことを教えてくれる授業がなかったということだ。

いったい、どの論がどのような影響下に、どのようにして発生したのか。

そういう『流れ』を俯瞰する授業がないというのは、すごく不満だった。

そのことについては、僕もよく文句を言っていて、「この大学の授業計画を練ってる奴は馬鹿だぜ」などとよく言っていた。

そういう経験があったから、逆に、本人がその場にいないところで誉められている教授というのが、僕にはすごく珍しくて、新鮮だった。

僕の知っている限りでは、本人のいないところで悪口が出てこない、誉められている教授というのは、文学部のH教授とK教授だけだ。

これは(陰口を言わない生徒も含めて)すごいことだと思う。

 ※

 学部生の頃、ゼミに属している、下の学年の生徒が、僕に敬語を使わなくて、ほとほと困ったことがあった。

というのも、彼がどういうつもりで敬語を使わないのか僕にはまったくわからなかったからだ。

僕が困ったのは、僕はサークルにも属していて、サークルの後輩たちは、僕にちゃんと敬語を使ってくれるのだけど、このゼミの後輩は使わない。

そういうねじれが、すごく苦しかった。

僕は、このゼミの下の学年の生徒に注意しようか、しまいかと半年ぐらいずっと悩んでいた。

先に出てきた命題だが、「求めすぎかな」というのが、僕の中にあったからだ。

「下の学年の生徒が敬語を使わないぐらいで、いちいち騒ぐなよ、馬鹿だな、気にするな、求めすぎだ」 という気持ちと、しかしそれでも、腹が立つという気持ちとが、僕の中に渦を巻いていた。

こういうとき、本当は、友達に軽く相談するか、あるいはその下の学年の生徒に、早い時期に注意すればよかったのだ。

しかし僕には、そのどちらも出来なかった。

というのも、友達に相談するのが、恥ずかしくてならなかったからだ。

下の学年の生徒が敬語を使ってくれない、というのは、要するに僕が馬鹿にされているというのを他人に示すようなもので、そのことが情けなくて、相談できなかった。

結局、勇気を出して友達に相談して、「文句を言えばいいじゃん」と言われた。

そして、「何で敬語を使わないんだよ」と本人に言うと、「なにが?敬語使わないほうが、親しみがもてると思って、俺のほうこそ気を使ってんだけど?」という返事が来た。

僕は、この返事に腹が立って仕方がなくて、結局大喧嘩になったのだが、この喧嘩の成敗の件で、U教授には本当に世話になったし、迷惑をかけてしまったのだった。

そのことを考えると、「陶芸家になったら?」と言われたぐらいで、U教授に文句を言わなくてよかった、と思う。

そして、今考えれば、『敬語使わないほうが、親しみがもてると思って、俺のほうこそ気を使ってんだけど』と言った後輩は、あれはあれで嘘ではなかったのかもしれないな、と思う。

もちろん真相はわからないし、僕は当時、その言葉を、喧嘩を売っていると感じたのだが、あれはもしかしたら、本気で彼はそう考えていたのかもしれない。

なんとなくだが、時を経て、そう思うのだ。

だとしたら、注意をすべきではなかったかもしれない。

やはり僕は、「求めすぎて」いたのかな。

求めすぎるような馬鹿になりたくない、しかし、ある程度求めなければ、心が折れてしまう。

 そういうバランスって誰にでもあると思う。

昨日、院の飲み会があって、僕は、このところたくさん、自分にとってつらいことがあって、それを誰か、誰にでもいいから、ぶちまけたかった。

そしてそれをT先生に話すと、「面白くない話題を出すな」と言われ、その回答には、そのときはそれなりに腹が立った。

「こっちは真剣に悩んでいるろに、面白い面白くないってなんだよ」と思ったのだった。

でも、一日考えれば、僕の中で、全然意見が変わってきた。

昨日の僕は、『求めすぎていた』のだ。

僕はどうやら、『賢者の一言』が欲しかったらしい。

それを自然と、他人に求めていたのだ。

でもそんな求め、棄却されるのが当然ではないのか。

僕は、お手軽マニュアル本のような答えを、他人に求めてしまっていたのだ。

僕は結局のところ、そういう、「答えを教えてもらいたがる」傾向を持っているのかもしれない。

僕は、テレビが嫌いで、めったに見ないのだが、結局のところ、僕は、テレビに出ている霊能力者に生きる方向性を尋る人と、さして変わらない傾向を持っていたわけだ。

だが、一方で、誰か、いろいろなつらいことを、聞いてくれる人がいればな、とは思う。

学部生の頃、とある喫茶店によく行っていて、そこの店長とは非常に仲がよかったので、閉店してから珈琲を入れてもらって、いろいろと学校でのつらいことを、その人に話していた。

そのときも僕は結局のところ、『賢者の言葉』のようなものを求めてしまっていたのだろうけれど、でも、僕のその態度は、今考えれば、情けないとはいえ、そうやって聞いてくれる人がいたことで、僕はずいぶんと助けられた。

そうでないと、僕は、もっといろいろなことを、がんばれなかったな、とは思う。

でも、他人に何かを求めることは、お門違いかもしれないのだ。

学校は、心の逃げ場か、それとも、厳しく勉学をする場所か。

他人は、つらいことをぶちまけていい存在なのか、それとも、自分のわだかまりは自分でほぐすべきなのか。

友達が、就職して間もない頃、たびたび一人でキャバクラに行っているという話を聞いて、僕はキャバクラに興味がないので、「なんだそりゃ」と思って聞いていた。

でも、考えてみると、その友人も、仕事がつらかったからかもしれない。

だとすると、僕たち友人には、そういう悩みをぶちまけていたところは見たことがないので、友人に迷惑をかけずに、わだかまりを発散していたのかもしれない。

あ、その態度はすごいな、えらいな、と思う。

結局のところ、沈黙のできる人、沈黙をして、それでいて無理じゃない人が、一番すごい忍耐力を持っているのだろう。

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