なんだかわからないけれど、町をふらつきながら、頭の中のもやもやが晴れない。
都会のネオンサイン、その薄情な光線は僕の眼前でちかちかと光を放ち、僕たちから遠くにあり、近くにある。
電車に乗っていたら、駅名の下に、ローマ字で読みが書いてある。例えば、出町柳なら、DEMACHIYANAGIである。日本語をローマ字に直すのは、すごく単純だ。読みをそのまんま、直す。
ん? でも、ちょっと待てよ。
タイトルを最初「カルデサック」にしようと思って、いやいやお洒落すぎるだろってことで、やっぱり「タリホー」にしました、服部です。昔、タリホー・ミスター・ベイシーってジャズの曲があったよね。パブロあたりから出てるアルバムでベイシーが弾いてんの。ところで、カルデサックって何?って思って調べたら、家の形態のひとつなんだね。語感が好きなんだ。語感ってのは大事だよね、語感、意味なんて後からついてくる場合があるんだ。だってさぁ、ウォーターフロント・オブ・サンフランシスコって聞いたら、「おぉ、ウォーターフロントでサンフランシスコか、ジャズっぽい」って感じるし、マウンテン・ブレイク・ダウンって聞いたら「マウンテンでブレイクダウンか、カントリーだなー」と感じるもん。意味を置いてけぼりにして、連想って働いちゃうんだ。そういう、「反射」って、良いときも悪いときもあるんだよね。ことさら、政治力学にも、大きく作用する。目に見える以上にずっと、ね。
だから、本当は、美術の話や、音楽の話や、文学・文脈・流行・表象の話をするのは、それは、根っこで政治の話をしているからなんだ。政治のことをかたろうとして、政治を直接的に言う必要なんてない。むしろ、はっきりといってしまったら、わかり安すぎて、読む人のためにならない。だって、世の中は複雑なんだよ。わかりやすいものを読んで、わかった気持ちになっちゃうと、本当の世界の複雑さに、絡められやすくなっちゃう。ほとんどの事象の文脈は、可視化されない、見えるならちょっとだけ見える。そういうものなんだ。
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