はっとり浩之オフィシャルブログ

2010年7月23日

タリホー!!

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 12:24 AM

タイトルを最初「カルデサック」にしようと思って、いやいやお洒落すぎるだろってことで、やっぱり「タリホー」にしました、服部です。昔、タリホー・ミスター・ベイシーってジャズの曲があったよね。パブロあたりから出てるアルバムでベイシーが弾いてんの。ところで、カルデサックって何?って思って調べたら、家の形態のひとつなんだね。語感が好きなんだ。語感ってのは大事だよね、語感、意味なんて後からついてくる場合があるんだ。だってさぁ、ウォーターフロント・オブ・サンフランシスコって聞いたら、「おぉ、ウォーターフロントでサンフランシスコか、ジャズっぽい」って感じるし、マウンテン・ブレイク・ダウンって聞いたら「マウンテンでブレイクダウンか、カントリーだなー」と感じるもん。意味を置いてけぼりにして、連想って働いちゃうんだ。そういう、「反射」って、良いときも悪いときもあるんだよね。ことさら、政治力学にも、大きく作用する。目に見える以上にずっと、ね。

だから、本当は、美術の話や、音楽の話や、文学・文脈・流行・表象の話をするのは、それは、根っこで政治の話をしているからなんだ。政治のことをかたろうとして、政治を直接的に言う必要なんてない。むしろ、はっきりといってしまったら、わかり安すぎて、読む人のためにならない。だって、世の中は複雑なんだよ。わかりやすいものを読んで、わかった気持ちになっちゃうと、本当の世界の複雑さに、絡められやすくなっちゃう。ほとんどの事象の文脈は、可視化されない、見えるならちょっとだけ見える。そういうものなんだ。

それをディグしようとしすぎると、ピンチョンの小説の登場人物みたいに、パラノイアになっちゃうだろうけどね。へ、へへへ。

でも、美術なんて、一番政治と反応しやすいし、利用もされやすい。政治に騙されないために、いろんな美術や美術の歴史、政治との係わり合いを調べておくのは、必要な作業だと思うよ。僕が思うに、現代人は、直接的に言及されていない部分に、無関心すぎる。ファッションだって、破れたジーンズだって政治なんだぜ。僕は髪を伸ばしていた頃いつも、マーヴィン・ゲイの「What’s Going On」を念頭においていたぜ?

だから親に、「髪を伸ばして格好つけやがって」となじられると、僕はその頃いつも「そいつは不当だ、アンタ、本質が見えてない」と抵抗したんだ。僕が若い頃、髪を長く伸ばしていたのは、「醜くなるため」だった。僕は美しいという言葉が大嫌いだった。美しいものほど、人を騙すものはない。そして、すべて、完全に美しいものなんてのはない。一方から見て美しいものは、逆から見たら醜かったりするんだ。何かを簡単に美しいなんていってしまうのは、言葉に誇りを持っていない証拠だ。言葉への冒涜だ。だから僕は、もっともっと醜くなるために、髪を伸ばし、ドライヤーもワックスも絶対につけなかった。一度もつけなかったな。

そして、美しいものは、いつも、政治と結託する。

もっと、若い頃の話を続けようか。僕は大学生の頃、「中古レコード屋に住んでいる」と揶揄されていた。というのも、ある時期、1週間のうちほとんど一日も学校に行かず、中古レコード屋や音楽喫茶に入り浸っていたからだ。薄汚れた色あせたロックTシャツを着て、大きなビニール袋に中古屋で手に入れたであろうレコードを入れて歩くだらけた感じの若者を見ると、今でも僕の胸はきゅんとする。それは一つの、文化なのだ。「あぁ、これぞ、日本の都心の夏!!」と思う。もって歩くレコードは、もちろん、カッコウのいいものであってはならない。出来れば、カントリーやフォークかモータウンあたりの古いソウルミュージックがいい。MPSあたりのジャズでも良いな。南国音楽なんてのもいい。ドアーズやツェッペリンだと、マッチョすぎる。ダサいほうがいいのだ。

僕が、大学生になって中古レコード屋に入り浸りになったのは、大学の授業に失望したからだった。僕は、大学というのは、圧倒されるほどの知識を次から次へと与えられる場だと思っていたのだけど、入ってみると、割とゆるい場所に感じられた。生徒側の責任でもあるんだけど、みんないろんな理由で、授業に出ない生徒は多い(バイトとかね。僕はバイトをして授業に出ないのは本末転倒だと思うけど、「人生勉強のほうが大事だ」といわれたら、言い返す言葉はない)。そういう生徒のことも含めてみんながある程度単位を取れるように配慮すると、どうしても授業はゆるくなってしまうのだろう。僕は、大学に入ってしばらく授業を受けて、「なんだよ、全部、本意書いてあることじゃん」と思った。それで嫌になっちゃって、学校よりも、中古レコード屋や大型書店のほうに足を向けるようになった。自分で知識を探したかったのだ。

今考えると、当時の僕の考え方は、ちょっと偏っていて、本の通りのことしか教えないってのは、大学でも、ごく最初の授業だったから、仕方がないんだよね。もちろん、本当にやる気のない教師ってのもいるけど、そうじゃない、真剣な人は、もっとたくさんいる。

大学は山奥にあった。山奥にあって、長い時間バスに乗らねばならないので、僕は冗談半分で、心の中で、バスを「シベリア鉄道」、学部を「帝政ロシア学部」と呼んでいた。呼ぶからにはロシア語ぐらい勉強しておくか、と思って、ロシア語の勉強をした(実は朗読コンテストで賞をもらったことがある。ロシア語の発音には自信がある←これは自慢)。大滝詠一の「さらばシベリア鉄道」だって聴いたし、タルコフスキーの映画も、黒澤の「デルス・ウザーラ」も見た。シベリア抑留がでてくるかと思って小島信夫の戦争小説を読みふけったが、中国ばかり出てきて、シベリアは出てこなかった。チェーホフに夢中になって、サハリン島も読んだ。強制させられる勉強以外のことには、相当努力家なのだった。ちなみに、そこまでやったわりには、今も昔も、別にロシアは好きでも嫌いでもない。

1時期は、大学を辞めるつもりで、製作会社でシナリオライターの仕事をやった。だがそれは過酷なものだった。生計が立てられそうにないので、辞めた。僕は目がさめて、大学に戻ったのだった。気がつくと、深い深い山が、好きになっていた。それはもう、シベリア鉄道でも、帝政ロシアでもなかった。

結局大学院まで行ったのは、この、一つの挫折を経て、勉学へ腰が入ったからだろう。物を見る目を磨くためには、自分の足で歩いた経験と、アカデミックな知識と、両方の視点が必要だと、強く思ったのだ。

大学院は、文学部を選択した。就職が厳しいぞ、と、、みんなから止められた。だが、なにくそ、という気分だった。そういうふうに不当に扱われる文学部が、かわいそうでならなかった。

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