はっとり浩之オフィシャルブログ

2010年7月28日

どうして旅に出なかったんだ

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 2:47 AM

タイトルがタイトルだけに発売禁止にならないか心配です(意味わかる?)。服部です。

最近イライラすることが多くて、ふらっと旅に出かけてきた。

昔からふらふらとしていて、いろんな景色を見るのが好きで、でも、カタログなんかの言いなりにはなりたくない。

だから、「これがあるからここに行きたい」ではなく、「とりあえず今回はあそこに行ってみよう」という感じでふらふらとした旅に出るのが好きだ。

そんなわけで、はっぴぃえんどの「風来坊」を大学生の頃に聴いたときは、深い感動と共感を覚えた。

『ふらりふらふら 風来坊 いつまでたっても風来坊 いいきになってる風来坊 つかれてる風来坊』という言葉のどれもが、深く深く胸に突き刺さってきた。

以来、僕はずっと細野晴臣のファンだ。

今回の旅では、ちょっとした驚きがあった。

それがどこにあるのかも調べずに宿を取ったのだが、なんと、友人がかつて住んでいたアパートのすぐそばのホテルだったのだ。

僕はすっかりと、その町の駅名を忘れていたが、改札口を出たときのデジャヴ感といったら、それはもうすごかった。

れ、なんだろう、これ、あ、そうか、俺は昔、ここに入り浸っていたぜ。

あの頃、僕はとある製作会社でライターをしていた。

過酷な状況だった。

ライターというのは、「最後のつじつまあわせ」をしなきゃならないから、他の製作人のすべてのしごとが終わるまで、じっと待ってなきゃならない。

締め切りが近い時期なんて、会社に泊まりこみはザラ、帰れても毎日深夜11時過ぎだった。

その上、社員寮にはガスが入っていなかった。

お湯が沸かないので、暖かい風呂に入ることもシャワーを浴びることも出来ないのだ。

僕はすっかり嫌気がさしていた。

ライターという職業に憧れて、なったが、そこそこ有名な制作会社だったが、こりゃないぜ!な気分だった。

それに、当時の僕は、文学にかぶれていた。

何か、既存の概念を壊すようなものを書きたかった。

だが、製作会社では、ウケることが大前提であった。

今なら、それが当たり前であることはよくわかる。

それに、すべての作品は、コピーと微妙な差異で成り立っているし、そのことは、恥じることではない。

真の革新などありはしないのだ。

だが僕は、若かった。

キャパシティ以上の夢を見ていた。

体は正直で、精神的にも、肉体的にも、そんなこんなで限界が来て、僕は逃げるように、会社から近いところに下宿している友人(彼は大学進学のために独り暮らししていた)のアパートに、休日は入り浸っていた。

そのアパートがある町のホテルを、今回僕は、偶然予約していたのだ。

記憶はあいまいで、友人のアパートがどこにあったのか、もう定かではない。

何か、変な感じのするマンション、というか、生活だった。

デザイナーズマンション、という奴で、ちょっとした有名デザイナーが設計をしたらしかった。

目に見えて凝ったつくりだった。

一人で住むようなマンションではなかった。

部屋は、全部で3つもあった。

当時から僕は、気になって仕方がなかった。

この友人は、大阪から出てきて、大学に行くために一人暮らしをしているのに、いったいどうして、こんなにも高級そうな、広いマンションを借りているのだろう。

その理由は?

お金はどこから?

友人が、答えることはなかった。

僕も、疑問点を話さず、ただ一種のよりどころとして、入り浸っていた。

夕食を出してもらうこともあったが、それは、質素なものだった。

高校時代の彼は、音楽に夢中だった。

だが、その下宿には、小さなポータブルプレイヤーが一つ、批評性のかけらもない流行の作品が数枚、オーストラリアのバンドのベスト盤が一枚、それだけだった。

僕は妙に物悲しくなったものだった。

すべてが変わってしまったような、一気に遠くに来てしまったような気がした。

思い出せば、僕の、20歳前後の記憶は、なんだか、『寒い』感じに彩られている。

思い出すと、自然に浮かんでくるのは、変化、認識、コートといった、寒々しい単語だ。

(ちなみに、今の僕にぴったりの単語は、素寒貧だ、ボロボロだ。ポロポロなら田中小実昌だが、ボロボロだ。)

7年ほどを経て、再び見た、かつて友人が住んでいた町は、なんともいえなかった。

僕はそこに入り浸っていたが、詳しいことはほとんど何もわからなかった。

ただ、友人がいたから、そこにいただけなのだ。

猫は、人ではなく、場所に懐くという。

僕は、場所の記憶は、無自覚で、人のことだけを強烈に、記憶している。

記憶が、幽霊のように、行ったりきたりする。

これもふらふらしている。

幽霊は、場所だろうか、人だろうか、どちらだろう。

空間?

位相?

一つだけ、収穫があった。

僕は、懐かしい町で、美術館に立ち寄った。

常設店に、ある作品の変奏として作られた、シニカルな作品が展示してあって、その作品の変奏でないほうとの、対比がしてあった。

同じ場所、同じ色の、そこにあるものが違うというものの、並列に、人は、変な感じを覚える。

どこの誰の映画だったか忘れたが、インディアンソング、だったかな、そんなタイトルの映画に(マルグリット・デュラスだったか? 違ってたらごめんよ)変奏があるということを聞いた時も、同じような眩暈を覚えた。

その理由が、手法のありように、なんとなくだが、ぼんやりと、気がついたような気がする。

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