タイトルがタイトルだけに発売禁止にならないか心配です(意味わかる?)。服部です。
最近イライラすることが多くて、ふらっと旅に出かけてきた。
昔からふらふらとしていて、いろんな景色を見るのが好きで、でも、カタログなんかの言いなりにはなりたくない。
だから、「これがあるからここに行きたい」ではなく、「とりあえず今回はあそこに行ってみよう」という感じでふらふらとした旅に出るのが好きだ。
そんなわけで、はっぴぃえんどの「風来坊」を大学生の頃に聴いたときは、深い感動と共感を覚えた。
『ふらりふらふら 風来坊 いつまでたっても風来坊 いいきになってる風来坊 つかれてる風来坊』という言葉のどれもが、深く深く胸に突き刺さってきた。
以来、僕はずっと細野晴臣のファンだ。
今回の旅では、ちょっとした驚きがあった。
それがどこにあるのかも調べずに宿を取ったのだが、なんと、友人がかつて住んでいたアパートのすぐそばのホテルだったのだ。
僕はすっかりと、その町の駅名を忘れていたが、改札口を出たときのデジャヴ感といったら、それはもうすごかった。
れ、なんだろう、これ、あ、そうか、俺は昔、ここに入り浸っていたぜ。
あの頃、僕はとある製作会社でライターをしていた。
過酷な状況だった。
ライターというのは、「最後のつじつまあわせ」をしなきゃならないから、他の製作人のすべてのしごとが終わるまで、じっと待ってなきゃならない。
締め切りが近い時期なんて、会社に泊まりこみはザラ、帰れても毎日深夜11時過ぎだった。
その上、社員寮にはガスが入っていなかった。
お湯が沸かないので、暖かい風呂に入ることもシャワーを浴びることも出来ないのだ。
僕はすっかり嫌気がさしていた。
ライターという職業に憧れて、なったが、そこそこ有名な制作会社だったが、こりゃないぜ!な気分だった。
それに、当時の僕は、文学にかぶれていた。
何か、既存の概念を壊すようなものを書きたかった。
だが、製作会社では、ウケることが大前提であった。
今なら、それが当たり前であることはよくわかる。
それに、すべての作品は、コピーと微妙な差異で成り立っているし、そのことは、恥じることではない。
真の革新などありはしないのだ。
だが僕は、若かった。
キャパシティ以上の夢を見ていた。
体は正直で、精神的にも、肉体的にも、そんなこんなで限界が来て、僕は逃げるように、会社から近いところに下宿している友人(彼は大学進学のために独り暮らししていた)のアパートに、休日は入り浸っていた。
そのアパートがある町のホテルを、今回僕は、偶然予約していたのだ。
記憶はあいまいで、友人のアパートがどこにあったのか、もう定かではない。
何か、変な感じのするマンション、というか、生活だった。
デザイナーズマンション、という奴で、ちょっとした有名デザイナーが設計をしたらしかった。
目に見えて凝ったつくりだった。
一人で住むようなマンションではなかった。
部屋は、全部で3つもあった。
当時から僕は、気になって仕方がなかった。
この友人は、大阪から出てきて、大学に行くために一人暮らしをしているのに、いったいどうして、こんなにも高級そうな、広いマンションを借りているのだろう。
その理由は?
お金はどこから?
友人が、答えることはなかった。
僕も、疑問点を話さず、ただ一種のよりどころとして、入り浸っていた。
夕食を出してもらうこともあったが、それは、質素なものだった。
高校時代の彼は、音楽に夢中だった。
だが、その下宿には、小さなポータブルプレイヤーが一つ、批評性のかけらもない流行の作品が数枚、オーストラリアのバンドのベスト盤が一枚、それだけだった。
僕は妙に物悲しくなったものだった。
すべてが変わってしまったような、一気に遠くに来てしまったような気がした。
思い出せば、僕の、20歳前後の記憶は、なんだか、『寒い』感じに彩られている。
思い出すと、自然に浮かんでくるのは、変化、認識、コートといった、寒々しい単語だ。
(ちなみに、今の僕にぴったりの単語は、素寒貧だ、ボロボロだ。ポロポロなら田中小実昌だが、ボロボロだ。)
7年ほどを経て、再び見た、かつて友人が住んでいた町は、なんともいえなかった。
僕はそこに入り浸っていたが、詳しいことはほとんど何もわからなかった。
ただ、友人がいたから、そこにいただけなのだ。
猫は、人ではなく、場所に懐くという。
僕は、場所の記憶は、無自覚で、人のことだけを強烈に、記憶している。
記憶が、幽霊のように、行ったりきたりする。
これもふらふらしている。
幽霊は、場所だろうか、人だろうか、どちらだろう。
空間?
位相?
一つだけ、収穫があった。
僕は、懐かしい町で、美術館に立ち寄った。
常設店に、ある作品の変奏として作られた、シニカルな作品が展示してあって、その作品の変奏でないほうとの、対比がしてあった。
同じ場所、同じ色の、そこにあるものが違うというものの、並列に、人は、変な感じを覚える。
どこの誰の映画だったか忘れたが、インディアンソング、だったかな、そんなタイトルの映画に(マルグリット・デュラスだったか? 違ってたらごめんよ)変奏があるということを聞いた時も、同じような眩暈を覚えた。
その理由が、手法のありように、なんとなくだが、ぼんやりと、気がついたような気がする。