はっとり浩之オフィシャルブログ

2012年3月7日

屈折した星屑と火星の蜘蛛たち

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 11:22 PM

はろー。

守口市議会議員の服部ですよん。

音楽の話と、議会の話。

まず音楽。

最近うちに帰るととりあえず「American Singersongwriters」という編集盤をかけてしまう。

60年代~70年代のフォーク~ロックを集めたレコードだけど、アメリカ盤だから編集が良い!

アーロ・ガスリーの「ニューオリンズの町々」がセレクトされていたり、PPMは「わが祖国」がセレクトされていたり。

日本編集盤だったらこのあたりの曲は別の曲が選ばれてそうだ。

ちなみに、アーロ・ガスリーはウディ・ガスリーの息子。

ボブ・ディランの自伝で、ウディの死後、未発表曲の楽譜をもらいに若かりし日のディランがウディの家を訪ねるエピソードが出てくるけど、このときディランに好意的な言葉をかける(ウディの妻はディランをちょっと怪しむ)のがアーロ。

親父さんとはまたちょっと違った、もっとロックっぽい曲をたくさん歌って有名になるんだよね。

特に、60年代後半に発表した「アリスのレストラン」って曲は、18分以上の長尺のトーキング・ブルースで、聴きごたえのある名曲だ。

やっぱりロックは1960年代から70年代前半ぐらいまでが一番耳になじむ。

みんなとっても文化的だし、野性的だし、魔術的だし。

なんといっても、言おうとしているメッセージがある。

最近のロック(もちろんすべてではないけれども)は、無理してメッセージらしきものを作ったりしていて、嘘くさくていかん。

メッセージ性までファッションになってやがる。

糞が。

最近またジョニー・キャッシュもよく聴く。

ジョニー・キャッシュは低い声で歌うカントリーシンガーだけど、カントリーシンガーという範疇を超えた普遍的な深さを持っている。

僕は学生のころ、ジョニー・キャッシュの歌を聴いてたくさんのことを学んだ。

その学んだことのうちで、いまでも深く心に残っているのは、「男は寡黙でなくちゃならない。男は泣いちゃならない」ということだ。

ジョニー・キャッシュはいつも、心の中の激情を、心の中の獣を、必死で抑え込んでいるように見える。

男は声に出してはならないから、さまざまな業、憎しみ、涙を、体の奥底でなだめている。

彼の、淡々とした低い歌声が、重層的に聞こえる。

通奏低音は、そういった、隠された感情だ。

「男は寡黙でなくちゃならない。男は泣いちゃならない」ということは、逆説として、「泣いていない人が悲しくないわけではない。寡黙である人が無感情なわけではない」ということだ。

だから俺は、ジョニー・キャッシュの歌を聴いてから、口に出さない人々の感情のことを考えるようになった。

語る人だけが正しいのだとは思わなくなった。

語らない人・語れない人の、声なき悲しみのことを想像するようになった。

ジョニー・キャッシュと言えば、誰もが思い出すのは、名曲「ビッグ・リヴァー」だろう(あるいは、リング・オブ・ファイヤーかヘイ・ポーターかクライ・クライ・クライか)。

俺はリノで

人を撃ち

そいつが死んでいくのを

じっくり見ていた

彼がそう歌う時、そこには、言葉にできない深い罪とがんじがらめの物語を感じさせられる。

「撃ち殺した」ではなく、「撃ち殺し、ジャスト・ウォッチ・ヒム・ダイ……死んでいるところを見ていた」という、呆然とした雰囲気が、なんとも言えない。

今日の議会は、3番目の質問までで終了。

俺は7番目やねんけど、3番目で止まってるので、明日俺まで回ってくるのかと心配。

なぜとまったのか。

3番目の質問をした議員さんが質問通告書に書いていない質問をしたからなんだね。

そして、それを質問として認めるか否かで揉めちゃったわけ。

質問をした議員さんは、認めてほしいという。

議長は、追加の質問は規則上認められないという。

平行線だ。

議員は、市長に質問をするとき、先に質問通告書というものを提出することになっている。

まぁ、受験するときの願書みたいなものだ。

質問通告書には、提出期限が設けられていて、締切以降には、質問内容は変更することが基本的にはできない。

まぁ、願書を出していないのに、大学受けさせてくれというのと同じだね。

だから俺の場合、今回は7番目の質問順序だから、先に質問した議員さんとかぶる内容は削除しなくちゃいけないのに、あとから増やすことができないから、質問内容が減っちゃって、後から増やせないから頭を抱えてたんだよね。

そんなわけで、議会の代表質問においては、先に通告した内容以外には質問できない規則になっている。

だけど、3番目に質問をした議員さんは、通告していない内容を追加で質問しちゃったんだね。

ただし、その議員さんは、再質問として、追加の質問をした。

ここがネックになっている。

再質問というのは、質問に対する市長の答弁に不備があった場合、さらに深く問い合わせることができる制度だ。

だから、整理すると、

①当日になってからの質問の追加は本来できない

②答弁との深い関連性があれば、再質問できる

というわけだ。

3番目の議員さんは、

まず最初にもともとの質問として「道徳教育の充実」を用意していた。

そして、再質問の形で「国旗の掲揚」を質問した。

つまり、もともと存在していた「道徳教育の充実」と、それに対する市長(この場合は教育長)の答弁が、「国旗の掲揚」とどれぐらいの関連性が認められるかの判断がネックになる。

これはもう、憲法9条の解釈と似たような話になってくる。

関連しているといえばいえるし、やや遠いといえばやや遠い。

一つポイントとしていえることは、教育長の答弁の中に、国旗についての言及がなかったということである。

つまり、もともとの議員の質問にも、教育長の答弁においても、国旗については、ふれられていない。

とすれば、国旗について尋ねると、「さらに新しい質問をした」という扱いになりうる。

だが一方で、道徳教育というのは広い概念なので、「国旗を掲げるのも道徳教育の一環だ」ということもできる。

とすれば、関連しているともいえる。

私は、個人的には関連はしている事柄だと思う。

だから、最初は俺は「別に認めてもいいんじゃね-の?」と思ったんだよね。

しかし、もっと深く考えると、一つ大きな問題がある。

それは、「道徳教育という概念があまりにも抽象的すぎる」という問題である。

道徳教育について質問を最初にして、それに関連していくらでも質問できるのであれば、例えば国旗掲揚だけではなく、体罰についての質問、親のしつけの質問、童話の読み聞かせの質問などなど、なんでもいくらでも思いついて後から追加できる。

そんなことになってくると、これはもう、「最初に抽象的な質問をしておけば、後からなんでも追加できるよ」ということになってきて、質問通告書制度が意味をなさなくなってくる。

そうなってしまうと、会議が無法地帯と化してしまうので、スムーズな運営やじっくりと一つの質問を精査したいと考えると、そういうふうにぽんぽんと質問が追加されまくれる先例を作ってしまうのはあまり好ましくはない。

ということは、「あまり漠然とした広い概念に対しては、あまり関連を認めるべきではない」という判断が必要になってくる。

だから結局は、この問題は突き詰めていくと、いまのことだけではなく、これから先のことまで考える必要性が出てくる。

上記の状況を考えて、答えが出ないようなら、公平な外部の有識者にでも判断ゆだねるしかねーんじゃねーの?と思う。

なんか訴訟社会的だが。そこまでやる必要なるのか?と思うが、答えが平行線なら、外の有識者が判断するしかなくなっちまう。

まぁそもそも、そんな細かいことで議会が止まってしまってどうするんだよ、と、待っている身としては思う。

だって、代表質問で訊かなくても、あとでもっと細かい案件を精査する委員会で訊けばいいわけだし。

最初は質問に入れず、追加で後から言うってことは、そんなにこだわりのある案件じゃなかったのかな、とも思うわけで、だったら代表質問って形にこだわらず、委員会でええやんと思っちゃう。

何時間も待っている時間があったら、ほかの仕事だって、ほかの案件だって決めることができる。

国旗は大事だけど、市の政策の会議なんだから、もっと目先の細かい実務だってあるのになぁ、と思う。

僕なら「(心の中で舌打ちしながら)あ、そうですか、そんならあとで委員会で訊きます」と言って終わりにして次の案件に進む。

別に格好悪いことでもないし。

今後、そういう失敗をしないように詰めていけばいいだけだし。

そもそも、最初から質問通告書の質問事項に入れとけばよかったのに、とも思うし。

教育の充実についてお尋ねします

1、道徳教育の充実について

2、国旗の掲揚について

としとけば良かっただけじゃん。

まぁ、俺がある種のこだわりが薄い性格だから、そんなふうに考えるのかもしれないけどね。

むかしから、ある種の執着が薄いんだよね、俺(一方で、曲げないことはまげねーけど)。

だから、流れ者とか根無し草とか、執着の薄い人がたくさん出てくるフォーク音楽が好きなんだな。

2件のコメント

  1. >答弁との深い関連性があれば、再質問できる
    関連性ありまくりだと思います。今、維新関連で話題ですからね。
    で、この問題で会議を遅らせるのはおかしいですね。
    最終にできない市議会なら融通が利かないなと。
    ジョニー・キャッシュ好きです。
    ジョニー・キャッシュの様に服部議員も苦しいのですね。
    頑張ってください。

    コメント by 一般市民 — 2012年3月12日 @ 7:54 PM

  2. コメントありがとうございます。
    私は、この「関連性」というのは、非常に重たいものだと思うんですよ。
    さっと決められるような軽いものじゃないと思うんです。
    なぜなら、「関連性」とは、抽象的な概念です。
    数値に表わすことができません。
    だから、「どこまでが正しい」という確約が難しい。
    それゆえに、議論が長引きます。
    一番顕著な例が、憲法第9条だと思っています。
    いろいろな解釈方法で議論されていますよね。
    今旬の維新に限ったことではなく、55年体制の昔から、解釈方法を巡る議論というのは、ずっと交わされてきました。

    私の今回の件の立場は
    1、道徳教育と国旗は関連はある
    2、ただし、「道徳教育について」という質問要旨は、質問要旨としては大雑把すぎる
    と思っています。
    僕は、質問要旨は、もう少し内容を細かく書いています。
    僕がもし同じ質問をするなら、最初から質問要旨に『道徳教育について 1、国旗について』と書いて出します。
    そうしないと、答える市長側も困るからです。
    「道徳教育について訊くみたいだけど、何について訊くのか細かくわからないなぁ」となってくると、議会当日までに、市長側も回答のための資料を用意することも大変です。
    そういう混乱を避けて、きっちりと精査された答えを導くためにも、ある程度細かい内容の質問要旨を提出するべきだ、とは思います。

    ちなみに、市議会が融通が利かないかどうかというのも、細かく考えると、けっこう深い問題だと思います。
    なぜなら、法律や規則にかかわる問題なので、どこまで融通を利かせるのが正しいかという問題になるからです。
    法律家や警察が融通が利きすぎれば、世の中はおかしくなりますよね。
    そういう意味では、規則というものは、多少頑固なぐらいが良いという選択肢はありえます。
    例えば、剣道・柔道・プロレスと、格闘技ごとに使える道具の融通は違います。
    でも、使える道具の幅が広い(融通が利く)格闘技がほかの格闘技に比べて優れているわけでもありません。
    逆に、制限が多い中で、美しく戦う格闘技もあると思います。
    そのへんは、どちらが優れているというのではないと思うのです。
    規則が厳しいならその厳しい規則を守りつつ、最大限の力を引き出すというのも、それはそれで格好いいと僕は思います。
    特に、世の中って、規則に反抗したから最高の結果が得られるわけではないですし、規則の中で頭を使いに使った結果、非常にいいアイディアが生まれることもあると思うのです。

    ジョニー・キャッシュのレコードだってそういう面があると僕は思います。
    ジョニー・キャッシュが歌い始めたころ、1950年代ごろですかね、そのころは、長時間録音が難しかったわけです。
    だから、録音するには、いろんな制限があった。
    制限の中で頭を悩ませていい録音を作ろうとした。
    ビートルズだって、レコードを逆回転させたり、手作業でいろいろ工夫してきた。
    それは、当時の録音技術が拙く、制限があったからこその、いろいろな工夫だと僕は前から思っています。

    また今度、ジョニー・キャッシュの音楽の良さについて語り合えたらうれしいです。

    コメント by hattori — 2012年3月13日 @ 12:30 AM

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