忌野清志郎の「瀕死の双六問屋」の新装版が出ていたので、買う。
やっぱり、良い!
権力に反抗するってのは、かくのごとく、地味で分かりにくいものなのだ、と再認識する。
清志郎ってのはすごい。
服装が派手だとか云々ではない。
反抗する、大きなものに飲み込まれないってのはどういうことかってのを問いかけ続け、その結果、いわゆる、地場そのものを憎んでいった人だ。
パンクが、「反抗という流行スタイル」にすぐに堕して行ったように、メディアが作り上げた、安全な反抗は世間にあふれている。
いいや、むしろ、流行や速報性というやつによって、即座に、反抗は、「反抗という流行スタイル」に組み替えられている。
そのことに気が付くのはごく一部で、そうじゃない人や、「おぉ、これが犯行だ」と、すでにメディアに絡められ、脚色され、隠れた金の絡んだ商業に喝さいを送る。
清志郎は、それを嫌い続けていた。
だから、言葉は品性と洗練とわかりやすさを欠き、粗野で抽象的である。
いいかい。
俺は君たちに言いたい。
世の中の、洗練された、よくできた見事なかっこいい言葉なんてのは、メディアの連中が、よってたかって協力しているからこそ出現するものだ。
本当のフリーハンドでいる連中は、メディアに出ることすらできやしねぇさ。
それが、左翼や反抗すら飲み込んで咀嚼した、高度資本主義なのだ。
※
瀕死の双六問屋を読んでいて、清志郎がこんなことを言うのが想像できた。
「絆なんて、嘘くせぇぞ。
一部の業者やお偉いさん方の懐に金の入っていく絆じゃねぇのか?
美辞麗句に騙されて骨抜きになるなよ。
奴らは優しい顔して、よってたかってお前らを食い物にしちまうつもりだぜ
世の中の上の方には、いい人なんてのはいないんだ
テレビに出たら、そいつは悪い奴と思いな!
お茶の間によく出てくるからいい人だなんてのは嘘っぱちだ!
お茶の間に出れるほどに世渡りをうまくやった奴ほど、非情で極悪人なんだ!
そんなやつらが口にしまくる、最近の絆ってやつを信用するな。
なんだか怪しい匂いがするぜ!」
最近、清志郎が生きていてくれたらなぁ、と、強く思う。
※
先日のこと。
友人と本屋に行ったら、ブラック・ロック・シューターというアニメの宣伝が目に入った。
「へぇ、ブラック・ロックだぜ」
と俺は言った。
「なんだい?」
と友人。
「ブラック・ロックだよ。黒人がやる音楽は、ブラック・ミュージックだろう? なんでブラック・ロックは存在しないんだろう」
「そりゃ一理あるな」
※
ロックンロールを作り上げた何人かの1950年代のアーティストを思い出せば、チャック・ベリーもリトル・リチャードも、黒人である。
そこに息づいているのは、まぎれもないロックのソウルだ。
でも、60年代になると、ジミ・ヘンドリックスぐらいしか思い出せなくなる。
LOVEなんていう黒人をメインに据えたロックバンドもあったし、エリック・バートンだって黒人ミュージシャンを集めてWARをやっていたけど、有名だとは言い難い。
黒人がやる音楽は、いつの間にか、モータウンやスタックスの音に代表されるようなR&B/ブラック・ミュージックというくくりになってしまった。
おいおい、黒人がやっていたロックンロールは、どこへ行ったんだ?
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ずっと昔、ブギウギはロックンロールだった。
ジャズバンドがブギウギをやった時、俺はノリにノれた。
ずっと昔、フォークロアもロックンロールだった。
ウディ・ガスリーが1800年代の大洪水について歌った時、そこには、ロックの持つ問題定義性があった。
※
フォークとブギウギというロックの原点から、気が付いたら遠く離れてしまっていたのだろうか?
あの、サマー・オブ・ラブの時代でさえ? すでに?
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しかし、ふと思うのだ。
もしもアメリカに、黒人たちが送られてこなかったら、奴隷制度との激しい戦いがなかったら、ロックンロールは、存在していただろうか?と。
あったとしても、もっと貴族的で軟なものになっていただろう。
黒人たちの、叫びと訴えが、ロックンロールに脈打つ、権力への反抗、拝金主義への反抗、戦争への反抗、要するに「押さえつけや抑制や強制への反抗」の下地を作ったのだ。
どうして俺たちを放っておいてくれないんだ、どうして俺たちを自由にさせないんだ、という叫びだったんだ。
そして、そういう叫び声が、ロックンロールという、手に汗握る楽しいツールを通じて、白人たちを変化させていったのだ。
だから、そののちに白人たちが歌ったとしても、ロックンロールには、権力や傲慢や強制への反抗が、きちんと歌われているのだ。
※
俺たちは、そのことを自覚しなきゃならない。
この時代は、まだギリギリ、大航海時代以降の世の中の仕組みが、成り立っている。
長い年月を経て、迫害された者たちが形成してきた、反抗の方法を、忘れて、捨て去ってしまってはならない。
いまが、ぎりぎりかもしれない。
メディアはもう、信用できない。
とすれば、我々は、過去から、反抗と、悲劇の歴史から、もっと多くのことを学ばねばならないのだ。
本質とは何か、繰り返されることとは何か、流行とは何なのか、を。
本当の反抗とは、いつも、本質への反抗であって、流行に乗って反抗することでも、左翼的「足りないからよこせ」でもないのだ。
それは、ブギウギして踊り狂うことであり、それによって引き起こすアンチテーゼであり、そこから導き出される、強権への、無償で自傷的な決別なのだ。
基本的に、ノーガード戦法な物事なのだ。
いまの時代は、賢しすぎる。
サブカルチャーですら、賢しすぎる。
意味なんて、求めるな。
そして、世の中は、複雑になったから。
裏の裏まで、読み取れ。