ジョニは高い塔を建てている。
細長くて、素朴で、とても高い塔。
風が吹いたら揺れたりしそうだけど、これが意外に揺れない。
とても素朴なんだけれど、とても高くててっぺんが見えないので、なんだか不思議な感じがする。
ジョニ・ミッチェルの音楽を久しぶりに聴いていたら、そんなふうなことを考えてしまった。
僕は子供のころから、女性ヴォーカルに全然興味がなくて、これまでにコンサートに行ったことがある女性シンガーが大貫妙子だけだったりするんだけど、ジョニ・ミッチェルだけは時々ふっと思い出したようにレコードを聴きたくなる。
聴いていて飽きないし、不思議な感じがするのに、すごく身近にも感じられる。
ドリー・パートンとルシンダ・ウィリアムスもたまに聞きたくなる。
そしたら知り合いに、「どの人もあんまりきれいな声じゃないね」と批判されたことがあるんだけど、別にいいじゃんと思う。
天使みたいな声は求めてないし、それよりもこう、何かを我慢しているような、そんな声の方が好きだ。
ジョニ・ミッチェルの声にも、なんだか知らないけど、すごく何かを我慢していて、それを伝えたがっているような雰囲気を感じる。
実際にそうなのかどうか知らないけど、そういう雰囲気が感じられるから好きだ。
あるいは、昔二ール・ヤングが歌っていた歌で、郊外の小さなレストランで皿洗いをしていていかにも欲求不満そうな女の子の出てくる歌があったような気がするんだけど、そんな感じの、下働きっぽい雰囲気のにじみ出る声の女の子の歌が聞きたい。
ジョニ・ミッチェルは、カナダから出てきたという経歴だけで、もう、なんだか素敵なような気がする。
「あぁ、彼女は、寒いところからやってきたんだな」と勝手に想像して、好きになってしまう。
レナード・コーエンも僕にとっては同じで、寒そうなカナダから出てきて、あんなに静かなのに、どこか炎がともっているような歌を歌うから、とても好きになった。
こういうのって、実際の人物像とは関係なくて、心の中で想像が膨らむから楽しいし、そういう想像で楽しめるから、それ以上彼や彼女のことを知ろうとは思わない。
世の中にはそういう楽しみ方がある。
僕にとっては山形だって同じで、僕の曽祖父は山形から東京を経て大阪にやってきた。
だから、一家のルーツは山形にあるわけだ。
僕の想像の中の山形は、静かで寒い。
そして、小さな炎がともっている。
本当の山形に行こうとは思わない。
それは、僕の想像とはきっと少し違っているだろうから。
※
ジョニの歌は、そんなに目立たないかもしれない。
でも、決して飽きることがない。
それどころか、時間がたつほどに、彼女の歌声が築いている、細長くて素朴な高い塔が、目に見えるようになってくる。
彼女の歌と歌声は、僕の心の中に、世界を作ってしまっている。
その世界は、本当の彼女とも、彼女の歌の本当とも、実は関係がない。
それは、彼女が僕にもたらした僕の世界であり、それだから、とても大切なのだ。
寒い雪の中に、不意に見える暖炉や、不安定でずっと我慢している心が、不意にとめどなく解放された瞬間のような、しんみりとした心地よさが、彼女の歌声によって、僕にもたらされ、形作られた、大切な世界だ。
もしも凍った
川があれば
すぅっとそこを
滑っていくのに
というようなことを、彼女が歌ったのだと、勝手にそう思っただけで、僕の心は永遠に、寂しさを紛らわせることができる。
それは、ただ破壊することだけをうたうロックンロールにはできないことだし、そういうものよりも、ある意味では、数倍は高潔である。