最近思うこと。
反抗や勇気の意味が、違ってきている。
かつて反抗っていうのは、みんなから総スカンを食らうべき行為だった。
それは例えば、戦争中に戦争反対って言うような勇気のことだった。
でも、最近の人々は、空気を読みすぎている。
「反抗している人を支えてあげるのが、流行らしいよ」というふうに、空気を読んで、一人ぼっちの反抗者を支える。
支えられた時点で反抗者は、反抗者じゃなくなる。
民意を得るということは、それが反抗ではなくなるということだ。
また、最近では、反抗をしていると支えてもらいやすいから、わざと反抗しようとするものまで出てくる。
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いまの時代にあえて孤独に一人で、反戦歌を聴くという行為は、大衆の支持が得られないので、反抗である。
しかし、「これが反抗だぜ」とか言って、みんなでパンクを聴くのは、大衆の支持が得られるので、反抗ではない。
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つまり、本当の反抗には①大衆の支持を受けられない行為をする孤独な人と②それを見る孤独な人という二つの孤独が必要なのである。
しかし現代においては①反抗的な行為をなす人と②みんながそれを格好良いというので、自分も一緒に支持しておく人というY図式の場合が多すぎる。
行為をなす人に対して、それを受け入れる人が大勢である場合、それを受け入れている人は単に空気を読んでいるだけで、ちっとも反抗していない。
このことを認識することは、非常に重要である。
いいかい?
行為をするものだけじゃなく、行為を受け入れる人もまた、大衆に反抗しなくちゃ、それはただの、流行になってしまうんだ。
みんながあれを格好いいというから、っていうのは、反抗じゃないんだ。
ダサいもの、流行じゃないもの、人が集まってこないもの、に、たった一人、自分の意志で目を向けることこそが、反抗なんだ。