守口市議会議員の服部です。昨日は総務市民委員会でした。
議題の一つに、市長の給与カットがあったのだが、どうにも市長の話を聞いていると、この政策には裏がありそうだった。
というのも、「自ら範を示す」と述べた市長に対し、「誰に対して範を示すのか」という趣旨の問いかけがあった。
市長は「市民や職員に対してだ」という趣旨を述べた。
すると「範を示すということは、『私がこういうリスクを自ら負うから、あなたもそれに倣ってほしい』というニュアンスがある。市長は、自分の給与をカットする代わりに、市民や職員に対して、なにか負担を求める予定なのか」という趣旨の質問があった。
それに対して市長は「市民に負担を求める予定はありうる」という旨の答弁をした。
整理しよう。
これはつまり、
「市長は給与をカットする。しかし、そのあとで、市民に対しても、なにか大変なお願いをするかもしれない」
という意味である。
もしかしたら、市長のカットした給与以上の額の負担を市民に対して強いるかもしれない。
これはおかしな理論だぞ、と私は思った。
そこで、私は、「ちょっと待ってくださいよ。なんだかおかしい。それじゃまるで、『あんたに5円上げよう』と言って喜ばせておいて、あとで『10円返してくれ』と求めるようなものだ」という趣旨の発言をした。
あとから求めるものがあるのならば、それを先に明示しておかなければならないのは、常識の話である。
「あなたに○○をしてあげよう。でも、そのお礼にあとで何を要求するかはわからないからね」
というような論理は、はっきり言ってむちゃくちゃである。
給与カットの見返りに、市民にどんな負担を強いるのかがはっきりと明示されない以上、簡単に賛成することはできない。
経費が削減されることはいいことである。
理由が妥当であれば、賛成でもよかった。
だが、内容を聴いていると、どうにも、裏がある。
市民に対する負担が増えるようでは(しかもその負担の内容すら明示されないようでは)、単純に賛同できない。
市民を守るためにこそ、内容のはっきりしない不透明な案には賛同できない、のである。
こういう、普通には見えにくい裏を感じ取って、審査するのが、私たちの仕事だ。
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現代思想、とくに構造主義の基本中の基本に、シニフィアン(記号)とシニフィエ(意味)の問題がある。
これは、言語学者のフェルナンド・ソシュールが言い出した言葉だ。
簡単に説明すれば、単語には、「音そのもの」と、「その音が表わす意味やニュアンス」がある、ということである。
この概念が、実は、現代思想つまり政治哲学において、大変重要なテーゼとなる。
さきほどの市長の言葉で考えてみよう。
「私の給与をカットする」が、表向きの言葉=シニフィアンである。
しかしそこで我々は、
「だがそのかわり後で市民に負担をお願いするかもしれない」
という、隠された意味=シニフィエを読み取らなければならないのである。
このように、シニフィアン(記号)とシニフィエ(意味)を念頭に置いておくことは、政治の場において、非常に有効なのだ。
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先日、とある先生(学校の先生)と、映画の話をしていた。
その方は、蓮見重彦のファンである。
私も、よく映画を見るが、私たち(私もその先生も)は、エンターテイメントとして映画を見ているわけではない。
そこに隠された政治性や思想性を学ぶために映画を見ている。
映画は、今となっては、ただのエンターテイメントのツールと受け取られがちだが、愛国運動にも、戦意高揚にも、左翼運動にも利用された時代があった。
例を挙げれば、グリフィスの「国民の創生」、ジガ・ヴェルトフ集団などなど。
映画業界が赤狩りで震撼した時代もあった。
今、時間が流れ、そういう、直線的な熱気の時代は去った。
マーシャル・マクルーハンがテレビをクール・メディアと呼んだことがあった。
今、この呼び方が、なんだか怖い、零度の震撼を僕に感じさせる。
かつての、本当の政治の季節を超えて、今、メディアは、サブリミナルのような政治性を発信し続けているように感じられる。
かつて、政治はエンターテイメントではなかった。
エンターテイメントになりきれなかった。
ゴダールが、アンゲロポロスが、レネが、政治を映画で語ったとき、そこには、幸福感がなかった。
みんな、痛いほど真剣に、語ることにおびえながら、つまずきながら、楽しくない政治を語っていた。
しかし今、政治は、エンターテイメントになってしまっている。
私は、そうでなかった時代を羨望するし、「語ることの困難さ」を、多くの人に、理解してほしいと思っている。
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ところで、「現代思想ってなに? 食えるの、それ」とよく人に聞かれるけど、ようするに、政治学みたいなものですよ。
学問で政治はできません。
でも、現代に連なる思想の流れ(前例)をきっちりと覚えておかないと、いろんな政策が、なぜ出てきたのかを把握できないと思うのです。
日本が今、こういうシステムで成り立っているのも、地域が、こういうシステムで成り立っているのも、長い長い思想の流れの中で、いろんな理論が出てきたから(そこにいろんな既存の条件要因が絡むけど)。
今の時代は、ホットな思想がなくて、思想性で政策が決められるなんて、イメージしにくいと思うけど、かつては、もっと前傾した時代があったはずなのです。
そして、思想史を把握するのは、恐ろしく難しい。
ヴェンヤミンやバルトの写真論が、実は政治を考えるツールになったり、先ほどの述べたように、ソシュールの言語学が、政治を考えるうえで重要だったりする。
政治学をただやればいいというわけではないということに気が付かなきゃならない。
僕だって、学生時代自分なりには必死になって哲学書を読んだけど、全然、笑いものになりかねないぐらい知識が足りない。
政治の道、10年20年にしてもならず、だと思う。
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ついでに。
市会議員の仕事は、市長に対するチェック機能です。
批判をするのが、私たちの仕事であって、個人的感情で攻撃をしているわけではない。
おかしいと思ったときは、おかしいと述べる。
理論的に納得できる政策が出てきたときは、ちゃんと納得して賛成する。
私は、自分に厳しくありたい。
自分が公平に判断できるように、切磋琢磨したい。
そのためにも、市会議員には政策を吟味する知識が必要なのだと思う。
とにかく、暇さえあれば、知識量を増やす訓練をしたいと思う。
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タイトルは、ボブ・ディランの2枚目のアルバムから。
僕はフォークが好きだけど、よく勘違いされるんだけど、四畳半フォークが好きなんじゃないですよ。
僕は、アングラフォークとかプロテストソングとか反戦歌が好きなのです。
ギター一本持って旅をして辻説法する、タフで薄汚い男たちが好きなのです。
フラワーパワーを信じてる!