はっとり浩之オフィシャルブログ

2011年10月14日

ナニカアル

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 1:14 AM

どーも、守口市議会議員の服部です。

今日(すでに日付は変わったが)はやや早く、夜10時に議会が終わりました。

いつも立ち寄る八島のローソンで缶ビールを買って帰ろうとすると、知り合いの職員の方とばったり遭遇。

「いやぁ、ビールを買ってまして」←俺

「お疲れ様です。今日はうまいビールが飲めると思いますよ」←職員の方

いやぁ、毎日お疲れ様なのは、そちらのほうですよ。

俺なんて、職員の方々と比べると、全然仕事量が足りません。

ホンマ申し訳ありません。

さて、今日もつらつらと、意味があるのかそうでないのか微妙な線のことをわざと抽象的に書いてみようかと。

気分的には、キングクリムゾンの初期のアルバムでも聴きながら読んでいただきたいところです。

今日思ったこと→『状況認識から、根拠は生まれる』

根拠から状況認識が生まれるとすれば、それは、『結論ありき』ということです。

いいですか、探偵小説を思い出してください。

「こいつが犯人だ」と、おもむろに目星をつけて調査する人がいますか?

「こういう事件現場に遭遇した」という「状況認識」から、「こいつが犯人かもしれない」と目星をつけていくわけです。

それが、論理的思考というものです。

だから、「状況認識から、根拠が生まれ」なければならないわけですね。

その逆、「根拠から、状況認識が生まれる」とすれば、世の中は、冤罪だらけになりうるでしょう。

要するに、状況をよく調べなければ、根拠は生まれないわけです。

そして、根拠なくしては、確定はできないわけです。

それを破るのがあたりまえになったら、世の中のルールは崩壊し、普通に暮らせる世の中ではなくなってしまう。

自分に都合のいい結論をまず用意して、その結論に当てはまるように根拠を探すという行為は、最も罪深い行為の一つでしょう。

僕は学生時代、統計分析の専門のゼミにいました。

そのとき、「やってはならないこと」として教えられたのは「論文の結論をまず用意して、それに当てはまるように統計分析をしてはならない」ということです。

統計分析は、結果を補強する根拠になりますけど、「統計分析をしていった結果、この答えが出たので、この答えは有意である」という使い方でなければならない。

「この答えを出したいので、統計分析をしました」というのは、自分に都合のいい、体制翼賛的なクズ行為なわけです。

なぜ、分析しようとするのか?

そこに、「何かがある」と疑うからですね。

これが実は、軽々しく考えると、怖い思考法なわけです。

「何かある」という思考は、実は、戦後社会の重要なテーマです。

「何か」「ある」。

何か、が何かは分からない。

決定的な状況証拠はない。

でも、何かがありそうだ。

この匂いを引っ張っていくのは、現代人の最も好む趣向かもしれない。

多くのRPGゲームや、探偵小説、ピンチョンなどのポストモダン小説が、この、「何かある」という姿勢に基づいて描かれていることに注目してほしい。

そして、いまや、小説という範疇を乗り越えて、この思考は、お茶の間の報道や政治にすら、悪い意味で浸透している。

きわめて単純に言えば、それは、「政治の世界には、明るみに出ていない何か裏があるかもしれない」という、例の流行の思考法のことである。

これは、ある意味では間違っていない場合もありうる。

だが、よくよく考えていただきたいのだが、これは、裏を返せば、非常に恣意的に利用されやすい思考法である。

何か見えない謎がありそうだ。

でも、その謎は見えない。

そんな時、謎に対する回答をちらつかせる人物が現れれば、そこに魅かれてしまう。

これは、危険である。

なぜなら、回答をちらつかせる人物が、必ずしも正義・良心の人とは限らないからだ。

また、その回答が、真実とも限らないからだ。

相手はただ単に、あなたよりも、ほんの少しだけたくさんの情報を握る立場にいて、あなたに、自分に都合のいい嘘を教えているだけかもしれない。

日本人は、そのことをもっと、気を付けたほうがいいかもしれない。

奇しくも、先日、ある種の小説の系譜をここに書き記した。

もう一度、そのことが、ここで反復されようとは。

役に立つと思うし、今の状況にとても合致していると思うので、アメリカの有名作家、トマス・ピンチョンの傑作「競売ナンバー49の叫び」の概要を、ここに記しておく。

平凡で暇の余っている主婦のエディパは、ある日、かつて別れた恋人の自殺の報、そして、その遺産の寄与の通達を受ける。

どうにも、不思議なことであると驚く。

なにか、裏がありそうに感じる。

そんなおり、身の回りで、いくつか、おかしいことが起きる。

おかしい出来事を、照らし合わせていくと、どうにも常に、事件の現場に、不思議なラッパのマークが残されていることに気付く。

そこに「意味性を勝手に受け取った」エディパは、かつての恋人の自殺と唐突な遺産寄与、そして身の回りの事件と、ラッパのマークを使った組織(があると仮定して)の存在との関連性を想像していく。

はっきりとは姿が見えないが、何か巨悪が、自分の周りを闊歩しているかのように思い込んでいくのである。

この小説のネックの一つは、エディパの予想(謎解き)に、さほどの整合性がないということである。

そして、当然のごとく、事件の解決には、物語は至らない。

この小説において、「なにかある」と仮定したエディパの探索は、堂々めぐりのままである。

最後まで、犯人も、事件の関連性さえも、「証明されない」。

ようするに、「なにかある」と思い込むのは簡単だが、「なにかある」という根拠を証明するのは困難だということだ。

また、この小説の主人公が、一般的には「パラノイア的である」と評されていることにも、注目したい。

謎に固執し、謎に入れ込み、何を見ても自分の追っている謎のしっぽだと思い込んでしまう。

彼女は自分が、恣意的選択をしていることに気が付かない。

ピンチョンの小説の功績の一つは、「ごく普通の平凡な人間が、パラノイアに陥ってしまいうる危険性をはらんだ現代社会」を提示したことといえよう。

この小説の趣旨というか、重要なテーマは、それだけではない(実はもっと深い)が、ここでは、そのことだけをとりあえず、書いておく。

現代の社会において、「何かある」と思うこと、「社会の裏の構造を、恣意的に想像しすぎると、ある種の人々に利用される可能性がある」ことを、指摘できる材料として適切なのである。

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