先日、ヴェンダースの新作映画「パレルモ・シューティング」を見てきたと書いた。
これが結構つまらなかった。
理由は、結構はっきりしている。
それは、2011年に見たからだ。
もしも、10年前にこの映画を見ていたら、つまらなくなかったかもしれない。
それぐらい、「パレルモ・シューティング」は、前時代の遺産的な雰囲気が漂っていた。
この映画は、自分を矢でいろうとしている男を追って、イタリア奥地のパレルモにたどり着くという内容で、一種のシーク・アンド・ファウンドの形式になっている。
文学や映画には、この手の「探偵ではない男が探偵まがいの捜索をして、事件の迷宮の中に入り込み、自身も存在意義を喪失してしまう」という流れがある。
古くはカフカであり、アントニオーニの映画やトマス・ピンチョンの「競売ナンバー29の叫び」や安倍公房の「燃え尽きた地図」、フェリーニの「道化師」、新しいところでは、ポール・オースターの「ガラスの街」や「幽霊たち」などを思い出していただければよい。
これらの作品は、芸術の大通りというわけではなかったが、ダークなサブカルチャーの中で、時代に淘汰されず、一定の地位を保ってきた。
しかし、今回、「パレルモ・シューティング」は、この流れに属するにもかかわらず、ちっとも共感を呼ばなかった。
なぜか。
それは、今の時代においては、「もう全部知っているよ」という諦念が社会を覆いすぎているからだ。
一昔前ならば、謎を追ってイタリアの奥地に行くなんて、どこかしら、不思議でロマンチックな香りがしただろう。
だが、例えば我々は、映画館を出てすぐに、「パレルモってどんな街だろう?」とスマートフォンを取り出して、グーグルアイで検索をかけることができる(事実、そうした)。
ウェブの発達が、もう、この世の中に、見えない場所なんてないというような錯覚をわれわれにい抱かせすぎているのだ。
もしかしたらもう我々は、カフカ的な現実と虚構のはざまには感銘を受けることができなくなっているのかもしれない。
(自明であると理解できるがゆえに、シニカルに)完全な虚構しか、愛せなくなっているのかもしれない。
だが、これは一つの危険な傾向だ。
我々がどれだけ、「世界は自明だ」と斜に構えても、それは単なる思い上がりに過ぎないからである。
相変わらず、弱肉強食や生と死といった社会の枠組みは、我々人間をとらえて離さないわけだし、それどころか、フィクションとしてのフィクション(映画など)に共振ができなくなった分、ノンフィクションとしてのフィクション(政治的美談や虚構)にのめりこんでストレスを解消する可能性が大きくなる。
現実の世界の中の虚構への耽溺は、小泉政治のパフォーマンスへの熱い視線以降、日本人に定着しつつある。
これは、脱構築して距離を測るべきテーゼである。
※
ヴェンダースを久しぶりに見て、そういえばこの監督の「ハメット」という映画を昔見たことを思い出した。
実在の元探偵の小説家ダシール・ハメットの、探偵時代を描いた映画だった。
考えてみれば、僕は子供のころ、ハンフリー・ボガードにあこがれていた。
ハメットやチャンドラー的な、感傷的なのに男らしくあろうとしている男が大好きなのである。
「強くなくちゃ生きていけないが、紳士的でなきゃ生きている資格がない」
これは、チャンドラーの最後の長編「プレイバック」の中のセリフだ。
日本でだけ有名なセリフだが、いいセリフだと思う。
サヴァイブするのは、難しい。
あるいは、人としての良心をなげうって、他人を食い物にしてサヴァイヴするだけなら、簡単だ。
だが、できることなら、良心を失わずに、しかも生き抜きたい。
そのためにどうすればいいのか。
考え続けることが大事だ。
クズ野郎にだけは、なりたくないものである。