友部正人のちょっと古い歌に「イタリアの月」という歌がある。
この歌は、湾岸戦争について歌われた歌だが、歌詞を読めばすぐにわかるように、無力感に満ち溢れている。
「僕にできるのはただ 悲しみのないところにいて歌うだけ」
「君がパレスチナで焼いた肌に、僕はベッドで触れることはできない」
「君が巻いた香ばしい葉に、僕は火をつけることができない」
「君が雨の中を歩いているとき、僕はその雨の中にいない」
僕は昔この歌を聴いたとき、なんていう独善的で卑怯な歌だろうと思ったものだ。
ここで歌われていることは、行動をしない人間の独善じゃないか、と。
たしかに、戦争の起こっている国に行かなかった場合、日本人は、悲しみのない場所で歌うことしかできない。
でも、僕たちはどこへだって行くことはできるのではないのか。
それは、行かない人間の語る綺麗ごとじゃないのか。
本気だったら、戦争を止めるために、中東に行けばいいじゃないか。
そう思ったのだ。
でも、ずっと時が流れて、先日ふとこの歌をもう一度聴いて、今度は全く違う印象を受けた。
この歌は、行動をしない人間が綺麗ごとを言っている歌とは違うのではないか、と思った。
この歌は、他人の痛みをわかったふりをして満足する偽善をこそ、批判しているのではないのか。
この歌で友部が言いたかったことは、もしかしたら、「当事者になることはできないのだ」ということではないだろうか。
ほかの国で戦争がおこったとする。
そこには、当事者たちがいる。
そして、当事者でない人間は、永遠に、過去の歴史を変えない限り、当事者になることはできない。
そして、当事者でない人間の介入は、善意であれ、悪意であれ、本当の意味での解決を促すことは、できないのかもしれないのだ。
考えてみれば、アメリカが過去に取ってきた正義の名の下のたくさんの軍事介入行為こそがまさに、「当事者でない人間たちによる大量介入」であり、「それにより引き起こされるさらなる混乱」ではないだろうか。
あるいは、僕たちは日本人の行為として、海外の「戦線」へと赴いて行った赤軍派戦士たちを思い出してもいいかもしれない。
もちろん、他人のために行動をすることは、悪いことではない。
しかし、そこに、ワンクッションおいて、自分の本当の気持ちを確かめることも必要なのではないのか。
正義という思い込みによる行動だけが、本当に世の中をよくするとは限らない。
当事者でないことを理解して、はやる気持ちを抑えて踏みとどまることが、時にはかえって相手のためになるかもしれない。
あるいは、本当は自分は、無意識化では「他人を助けることで自分が癒されたい」などの、別の意図を持っているのかもしれない。
もちろん、それでも、どんな下心であれ、行為は行為だという考え方もある。
僕も、昔はそう思っていた。
けれども最近、むしろ、そういう考えに基づいて遂行する自称正義というものは、むしろ、社会の混乱を招く。
悪影響しか世の中に与えない、と思うのだ。
本当に世の中に貢献したいなら、自己満足ではなく、世の中を見渡したうえでの確固たる行為が必要ではないのか。
古い西部劇を見れば、甘えた正義感のもとに自称正義を振りかざそうとする勘違い男を、叩きのめすタフな地に足のついた男たちが散見される。
それが、社会というものなのだ。
そんなふうにふと思うようになったのは、きっと僕がこの数年、民族の掟や風習、社会の成り立ち、あるいは、レヴィ=ストロースを読んできたからかもしれない。
社会の風習の中には、結構残酷なものがある。
しかしそれは、よくよく論じつめれば、社会システムの維持のために必要な残酷さだったりする。
社会は複雑なレイヤー構造をしていて、ブルーにこんがらがっていて、正義の名のもとに、フラットにしていいものではないのだ。
それは、生物の体系そのもののありかたに反している。
むしろ、本当に必要なのは、正義ではなく、良心なのかもしれない。
正義という言葉は、格好がいいが、利用されやすい。
正義のための戦争、正義のための制裁……。
どんな行為でも、正義とつけてしまえば、それはそれなりのものに聞こえてしまう。
便利なツールだ。
それゆえに、むしろ人を欺くために使われる確率すら、高いといえるだろう。
しかし、良心というものは、各個人の心の中にあるものだから、他人に見せられるものではない。
その分それは、揺るがないだろうし、悪い行為をよく見せるためのツールにはなりえないだろう。
良心とは、規範である。
規則である。
「良心があるから、こういうひどい行為はできない」
というように、人間が他人を尊厳するための、セーフティネットのようなものである。
それは、正義よりも、よっぽど今の社会のために、必要なものだ。
正義や本気や改革という言葉は、自分をよく見せようとする政治家たちによって使い古され、すっかり、自己正当化の道具に成り果ててしまった。
とすれば、これからは、良心の必要性をこそ、社会に対して、我々は、訴えていくべきではないだろうか。
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そういや、昔、柄谷行人とかが、文学者による湾岸戦争反対署名を出していましたね。
いまなら、なぜあの行為を吉本隆明が批判したのか、ぼんやりとわかるような気がする。
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応用として考えれば、「君の痛みがわかるよ」というような言葉は、恋愛映画の中にしか存在しないという事実がある。
そのような口説き文句を吐く男が、本当に長い愛を支えてくれるだろうか?
所詮そういう言葉は、「あの人だけが私をわかってくれている」という相互浸透を利用したフィクショナブル言葉遊びに過ぎない。
現実的には、「君の痛みは分からない。君になることはできない。だが、自分なりに誠実に君を愛する」というメッセージのほうが、よほど信用できるはずだ。
しかし、「君の痛みを僕は分かっているよ」的な言葉遊びが、拡大され、政治の世界でも、利用されている。
そして、それが、政治というモデルにおいては、現実的に有用だったりするもんだから、困ったもんだ。
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友部の歌にはそういえば、『イタリアの月』に限らず、「やっぱり君は僕じゃない」とい歌う『楕円の日の丸』、「ボブ・ディランなんか知らない」と歌う『僕は海になんかなりたくない』、「僕は死ぬまで道路にはなれないだろう」と歌う『誰も僕の絵を描けないだろう』など、他人になることはできない、という前提のもとに一貫したメッセージがあるような気もする。
考えてみてほしい。
「僕は君じゃない」というメッセージは、けして、「君をわかることを放棄する」という意味ではない。
それはむしろ、君と僕は同一ではないという社会の困難性を理解したうえで、さらに思考を広げようとする行為だ。
君は僕じゃないからこそ、君と僕が融和できる方法は、何だろうか?と考えることを促す、現実的な手段なのだ。
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連休で、所要あって、豊郷と浜大津に行ってきました。
あと、一日だけ休みが取れたので、ヴィム・ヴェンダースの映画「パレルモ・シューティング」を見てきました。