今日は、とある人と偶然、政治の話をする機会に恵まれました。
その時に、社会の共通前提(常識や尊厳)を維持するシステムが崩壊しているから、勝手気ままな人が増えるのではないのか、それを防ぐためには、地域に属する人々が互い補完し合えるような大きな社会を作っていくことが必要ではないのか、というような話題が出てきました。
別の話題で書こうとしていたことなのですが、テレビの15秒CFのような「退屈させない、でも、中身とは無関係」であることを認めることに疑問を覚えない価値観が、今の社会を覆ってしまっています。
その結果、退屈なことはすべてかかわらないという気風が社会全体に通底しているように感じられる。
例を挙げてみると、「面倒だから町内会にかかわらない」「退屈だから、政治の細かい議論は抜きにして、ワイドショー的なものしか見ない」といったところでしょうか。
こういう事態になった背景には、情報革命によって、人ひとりの仕事量が激増していることもあるとは思います。
しかし、このままでは、社会は、社会常識を維持する・若者に伝えていくことができなくなってしまいます。
それを、何とかして、回復させなければならない。
これは、難しいし、地味な作業です。
大声で声高に具体例を叫ぶ「改革」とは、まったく毛色の違う作業です。
しかし、やらねばならないのです。
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三浦展の「ファスト風土化する郊外」を読みました。
新書ですし、簡単にさくっと読める良書なので、ぜひ皆さんも、興味があれば読んでみてください。
郊外がなぜ均質化されていったのかを論じた本です。
この本を読んでいて、二つ思い出したことがあります。
一つは、以前、うちの祖父と四国旅行をした時、祖父が僕に言った言葉。
「電車の窓から見える家並みが、どの家もおんなじに見えるなぁ。昔はこうじゃなかったのに」
祖父は、若いころ建設会社に勤めていましたから、この言葉には実感がこもっているはずです。
日本の風景が均質化しているのかもしれない。
もう一つは、評論家の東浩紀の言葉です(はっきりと覚えていないので、要旨ですけれど)。
「サカキバラ事件が起こった須磨区に行ったことがある。僕は東京の青葉台に住んでいたわけだが、須磨区の都市と、東京の青葉台と雰囲気が均一的だったのに驚いた」
そう、地方郊外から、多様性が消えて行っているのかもしれない。
一時期隆盛したカルスタ・ポスコロという考え方は、要するに多様性の重視でしたが、いつの間にかそれがネオコン的考え方にとって代わられました。
そして今、それよりももっとひどい、中身を置き忘れたポピュリズムが、政治の世界を横行している。
いったいいつになったら、うわべではなく、「過去をしっかりと承認し現在を論じる」という地に足の着いた保守の考え方が、世の中に出てくるのでしょうか。
僕はそれを、じっと待っています。