はっとり浩之オフィシャルブログ

2011年9月9日

物語の謎

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 12:36 AM

この数日読んだ本の中で、漫画関係の本が結構面白かった。

具体的には、「手塚治虫が生きていたら電子コミックをどう描いたか」(大塚英志)、「サブカルチャー神話解体」(宮台真司)、「ふしぎなふしぎな子供の物語 なぜ成長を描かなくなったのか」(ひこ・田中)。

これらの本を一気に読んだきっかけは、先日部屋の掃除をしていたら、学生時代に読んだ大塚英志の「おたくの精神史」と「サブカルチャー文学論」が出てきて、読み直したら結構面白かったから。で、その本の中に吾妻ひでおの話が出ていて、懐かしさも相まって、みょうに吾妻ひでおが読みたくなってジュンク堂に出かけて「地を這う魚」を買って、そのついでに書店で目についた上記3冊を一緒に買ったのだ。

「手塚治虫が生きていたら電子コミックをどう描いたか」で語られている、日本のアニメが内包するロシアンアヴァンギャルドっぽさ≒構成という理論には結構納得がいった。

僕は大雑把な性格なので、構成とか構築という言葉にはめっぽう弱いけれど、日本のアニメやゲーム系のクリエイターがよく、「パーツを組み合わせる」かのように人物造形を語るのをライター時代に聞いていた僕としては、確かに、彼らの考え方には『要素と構成』というものが考えの主観としてあるような気がしている。

大塚英志は、ディズニー的表象を「パーツ組み合わせ」で描くことこそが手塚治虫の作画方法だったのではないかと指摘するわけだが、現代のアニメ・ゲーム系の作家の作画・ストーリー・人物造形にもこの図式はいまだに当てはまるような気がする。

僕がライターだった時、大手ゲーム会社のC社の社長と会話をする機会があって、「君はどんな作品が好きだね?」と問いかけられて、僕は、「そうですね、いろんなよくわからないことが起こって、それらに明確な答えがないような作品が好きですね。でもそれがSFみたいにはならずに、例えばボブ・ディランの音楽が存在するような世界というか、現代的な、リアルな手触りにクローズアップしているといいですね」というようなことを答えたと思う。

するとそのゲーム会社の社長はため息をついて、「君ね、それはシチュエーション萌えだよ。場面とか、起こったこととかに興味があるんだね。でも、これからの時代、そういう考え方じゃ売れないぜ。これからはキャラクター萌えだよ。タバコを吸っている黒い帽子の男が出てくる物語、とか、メガネで三つ編みの女が出てくる物語とか、キャラクターから始めなきゃ」と言ったのだ。

その時僕は、彼が一体何を言おうとしているのか、いまひとつわからなかったのだが、今なら、よくわかるような気がする。

重要なのは、宙吊りにされた場面イメージではなく、属性というパーツに構成されたキャラクターなのだ。

それは、手塚治虫以降の、業界の常識なのかもしれない。

一方、「ふしぎなふしぎな子供の物語 なぜ成長を描かなくなったのか」もまた、僕の記憶を掘り下げる。

こちらは、戦前からの子供向けの物語の問題意識の変化を通史的に論じた本だが、現代においては、ビルドゥングスロマン(成長物語)はもはや成立しないのかもしれないということを語っている。

ライターをやっていたころ、仕事関係で流行のライトノベルやゲームのストーリー展開をざっと調べる機会があったのだが、その時僕は、「なんていう、物語の奥行きの作りにくい世界観なんだ」とめまいを覚えた覚えがある。

というのも、それらの作品には、「時間の奥行き」が全くなかったからである。

大抵の通常のかつての物語は、時間の変遷があり、その中で主人公たちはいくつかの絶望にさいなまれ、大人びていく。あるいは、過去の膨大な照射の中の今を生きている。

だが、どうにも流行のライトノベルやゲームには、「今」しか存在しない様子なのだ。主人公たちが若くなければならない(中高生。読者が若いので、それに対応させられる)のも、過去を語りようがない原因だ。このように、造形を欠きかけないパーツ構成されたキャラクターたちで、いったいどのように、世界の手触りと対抗すればいいのか?と、僕は悩んだものだ。

と、ここまで書いて、ふと、いいや、僕はやっぱり間違っているかもしれないな、と思った。

少年や少女が、世界と向き合ってはならないのか?サリンジャーは、どうなる?

大人の物語でも、造形の乏しい、瞬間しか描かないものはあるのではないのか?ゴダールの「勝手にしやがれ」は、どうだ?

「物語」というものの、奥深いなぞは、なかなか簡単には、解き明かせないようだ。

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