はっとり浩之オフィシャルブログ

2011年8月20日

新藤兼人の「一枚のハガキ」を見てきました。

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 1:34 AM

お盆休みで、新藤兼人監督(99歳!)の新作映画、「一枚のハガキ」を見てきました。

ユーモアあり、感動あり、シュールな名演出ありの堅固な作りで、久しぶりにしっかりとした日本映画を見た、という気持ちになりました。

新藤監督の作品は、思い返せば2000年ごろ、立命館大学の受験をさぼって(笑)、シネヌーヴォ梅田に、彼が脚本を書いた「大河の一滴」を見に行って以来なので、かれこれ足かけ10年ぐらいの付き合いになりますね。

過去の作品は膨大な量なので、すべてを見ているわけではありませんけれど、大体の有名作はDVDで見ています(「午後の遺言状」が好き)。

「陸に上がった軍艦」「花は散れども」は、リアルタイムで体験しました。

「一枚のハガキ」を見て、まず感じたことは、「画像がきれいになった『ピロスマニ』みたいだな」ということ。

『ピロスマニ』というのは、古いグルジア映画です(余談ですが、数年前、僕がロシア人に「あなた、ピロスマニって知ってるか?」と問いかけたら、ロシアとグルジアの関係が良くない時期だったからか、露骨に嫌な顔をされました)。

遠景からの撮影の多用が、舞台劇的なシュールさを与えている部分が、そう思わせるのかもしれませんが、そういう手法はある意味ありふれているので、それだけではないでしょう。

『時間の進め方』の感覚が似ているのではないかな、と思います。

ある種の新藤映画では、時間が、非常に淡々と流れたり、急にじっくりとなったりします。

重要なはずの場面が、非常にあっさりと流され、そうではなさそうな場面が、じくじくと描かれたりする。

そういうめまいのような倒錯感覚が、妙に哲学的に感じられ、本来はリアリズムなはずの物語を、まるで異世界で起きている出来事であるかのように感じさせる。

そんなところが、ピロスマニに似ているのかもしれません。

簡単に言えば、「事実を、薄氷一枚の差で寓話化させる」のが見事なんですね。

また、「一枚のハガキ」は、テレビなどの取り上げ方では、まるでおかたい反戦映画のように感じられてしまうかもしれませんが、これは、「花は散れども」同様、コメディ作品でもあります。

骨太の作品であることに異論はありませんが、ばからしい教条主義映画ではありません。

僕は、この作品が、メディアに、教条的に取り上げられてしまうとすれば、それは悲しいことであると思います。

ばからしいことがたくさん起こる映画です。

大きな破壊が幾度も物語にやってきて、極上のカタルシスを味わえる、すごい作品です。

僕が、この作品で一番感心したことは、脚本が、「ことごとく、わかりやすい方向に流れてしまうことを拒否している」点です。

「久々にきっちりとした日本映画を見た」と、僕ははじめに述べましたが、それは、最近の日本映画がことごとく、わかりやすさや、ありきたりの展開、観客を飽きさせないことにばかり腐心して、ちっとも前衛性を発揮できていないことに、深い落胆を覚えていたからです。

ゼロ年代の一時期以降、日本映画がもう一度売れだして、大作も増えましたが、そのほとんどが、客に媚びたばかばかしい作品でした(北野武の作品は、ずいぶんマシだと思いますけれど)。

客を脅かそう、客に唾をはこうという気持ちが感じられなかった。

そんな映画には、本当の意味でのスリリングさなど、ありえません。

それどころか、そういった作品は、客に媚びてる表向きの裏で、「こういう作品にしときゃお前たちは喜ぶんだろ」と、むしろこそくに客に唾を吐いているのです。

そんな失望感を、「一枚のハガキ」は、軽々と拭い去ってくれました。

まったくもって、勇気をもって、ありきたりな展開に背をそむけ続けますし、ありきたりな時間の進み方にも背をそむけている。

そのことを、多くの観客が理解してくれたらな、と思う。

ラストが唐突でいいかげんっぽいのも、あれも客を裏切る装置だと思います。

僕はそういうの、すごく好きだ。

余談では、今回は前作と違って、日経がスポンサーについてなかったけど、お金の捻出大丈夫だったのかな?と思ったのと、音楽が、ちゃんと、林光でしたね、とか。

いい音楽でした。

劇中、トヨエツ演じる主人公が、「まだ戦争はおわっとらんよ!」と絶叫する場面がありますが、あの、怒りを込めて絶叫する場面、すごく共感しました。

主人公は、戦争から帰ってきて、いろんな気持ちが交差して渦巻いている復員兵ですが、とにかく、まだ、何も終わっていない、かたずいていない、という言葉に、もっと複雑な、叫ぶことでしか解消できない何かが潜んでいる。

それこそが、わかりやすくしてしまっては、ダメな部分でしょう。

数年前、テレビ朝日が記念作品として、ビート武主演で「点と線」をドラマ化した時、とっても安っぽくて教条的な「戦争はだめだよ」的なセリフが展開されて、「こりゃダメだぞ」と目を覆いたくなるという体験を僕はしました。

そんな、わかりやすい言葉に逃げてしまっては、人間の心には、届かないぞ、と、テレビに向かって叫びたくなった。

それどころか、辟易とさせてしまうだけだぞ、と。

そうではなく、もっと、言語化できない複雑さを、しっかりと、表現しなくては、ならない。

そういう意味でも、この、猥雑ですらある「一枚のハガキ」は、とてもパワフルな、信念のある作品だと思いました。

そんなことを考えていたら、久々に、ピート・シーガーの「If I Had A Hammer(天使のハンマー)」を聴きたくなりました。

「もしも、俺がハンマーを持っていたら、国の危機の時には、それをたたいて警告をするのに!」というこの歌には、平時の寡黙と、危機の時の決意が、強く語られています。

今の社会は、すっかりとこの歌の逆になってしまったのではないでしょうか。

何もないときには、ハンマーでも叩くかのように、大きな声で、格好つけて、パフォーマンスをする政治家たち……。

いったい、そういった人たちは、本当の危機がやってきたとき、ハンマーをたたいて、警告することができるでしょうか。

いいや、絶対に、口をつむって、そ知らぬふりをしているでしょうね。

僕は、いつも思うのです。

世の中には、本当の危機の瞬間と、長い時代の流れで考えれば、それほどの危機ではない瞬間がある。

それほどの危機ではない瞬間瞬間を利用して、ハンマーをたたいているふりをして、英雄のふりをしてしまう、脱落した政治家が、今の世の中、多すぎるんじゃないでしょうか?

僕は、じっと待って、寡黙に待って、本当に、国民の危機、ここで、自分をつぶしてでも、抵抗しなければ、という時にこそ、高らかとハンマーを振りかざす男、そういう政治家が、出てきてほしいと思っている。

僕だって、そうなりたい。

国民も、そのことを、しっかりと、考えるべき時だと思う。

ある社会学者は、90年代以降の投票行動に、「シニカルな没入」がある、と論じていました。

シニカルな没入というのは、つまりは、「あの政治家は馬鹿だというのは、本当は分かっている。でも、雰囲気で投票してしまう」という、二律背信の行為である。

そういう行為が、90年代以降、ずっと行われてきた、という分析がある。

つまり、小泉人気も、民主党人気も、タレント政治家人気も、国民は、本気で彼らを信じたわけではない、というのである。

この、社会学者の主張が正しいかどうかは、わからない。

でも、面白い考察ではあります。

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