久しぶりに村上春樹を読んだら、Kさんのことを思い出した。
Kさんというのは、僕がライターをやっていた頃、とてもお世話になった先輩で、ライターというか、プランニングや進行など、まぁ大体なんでもこなす人だった。
50代ぐらいの彼と僕は世代的には離れていたが、互いに、村上春樹好きで、フュージョン好きだったので、けっこう気があった。
ライターをやっていると、文体が固定されるのは好ましくなくて、いろんな文体に適応できなくてはならない(だって、シリアスな作品を描いている途中で、「おい、明日から、〇〇っていうコメディのライターが「逃げた」から、サポートで入ってそっちの続きも書いてくれ!」なんてことを平気で命じられる業界なのだ)。
特に、春樹的な翻訳調の文体なんて、実際には使える場がほとんどないので、染まってしまうと大変なことになる。
だから、春樹好きだなんていうと、スノッブで気取った感じに捉えられがちで、とてもそんなことは公言できない。
そんな中、Kさんは比較的、自分の趣味は趣味、仕事は仕事と割り切れている職人タイプの人間で、僕は反対に、のめりこみやすい性格だから、「この人は、俺とは違う。すごいな」と思っていた。
僕も彼もジャズ好きだけど、僕は50年代ぐらいのジャズが好きで、彼は70年代ぐらいのフュージョンが好きだったので、あまり接点がなく、暫定的な中間地点として、フュージョンっぽいロックバンドのスティーリー・ダンの話で盛り上がっていた。
Kさんは物静かな人で、あまり多くは語らなかったけど、いかにも、多くの製作現場を潜り抜けてきたような手際のいい作業をする人だった。
僕はその頃、20歳そこそこで、とても若かったので、血気盛んで、とにかく鋭いもの、自己主張できるものを書きたかったけど、Kさんを見ていると、それは子供の甘え何じゃないだろうか、と思うことがあった。
ライターというのはよほど有名で、自分が作品を引っ張っている存在でない限りは、本来的には製作現場のスタッフ、歯車のひとつであるはずなのだ。
前にスムーズに進めていくためには、自分のエゴが勝ちすぎては、いけない。
僕はそれをわかろうとして、しかしやっぱり血気盛んだったので、なかなか自分を抑えられないでいた。
僕の頭の中には、さまざまな芸術的言語が、渦のようにうごめいていたが、それらは、ざわざわとうごめいているだけで、具体的な形を取ってはくれなかった。
今になればわかるのだが、物事が成熟し、ある重大な心持が、一定の形式として成り立った作品と化すまでは、10年ぐらいは平気でかかることがある。
それぐらいに、言語というのは、複雑だし、物語というのは、奥深いものだ。
でも、若い頃には、なかなか、そういうことがわからない。
僕は、ずっと後になって、自主制作で映画を二本作ったけど、それは、歯車であることをやめるのだと割り切ったからこそ作れたものだった。
自分の中に沈み込んでいた物事を、救い上げ、ひとつの作品に仕立てるには、僕は、自分が歯車のひとつでいながらそれを成し遂げるほどの度量がないのだということを、ようやく感覚的に知覚できたのだ。
物事の筋立てというのは、時として、言語化できない。
だから本来は、粗筋なんていうものは、無意味ですらある。
そんな、粗筋に集約できるか出来ないかなんてことは、作品の優劣を差配しない。
だが、自分がどこかの歯車であろうとすれば、粗筋に捕らえられてしまう。
僕はそれを超越するだけの力がない。
だから僕は、粗筋に差配される社会から逃げだしたのだ。
二つの自主制作映画を撮った後、僕にはまだ、自分の中に新しく沈殿していく事を、組み立ててひとつの作品に集約させていくだけの物事が、沈み込んでいない。
4年ほどたっても、だ。
それぐらいに、言葉は、物語は、大切なものだと思う。
でも、時々、今の社会って、そういう悠長な社会ではない。
あまりにも、気持ちの言語化・物語化が早すぎるよ、と思うことがある。
そんなことをしていると、うわべだけの、偽者の言語・物語が氾濫してしまう。
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Kさんは、熟しきっていて、多くを語らない人だったけど、僕が勤めていた制作会社には、いろんな逸話を語る人々がいた。
制作会社なんてのは、基本的には、よほど売れていない限りは、恐ろしく貧しいものだし、社員の流動性が激しいものだから、社員のそれぞれが、過去にいろんな製作会社を渡り歩き、極貧生活をしていた。
某社に勤め、10ヶ月間給料を払ってもらえず、雑草を食べたり猫のえさを食べたりしていた(「この作品が出来上がって、売れたら、給料を払えるから、頑張ってくれ!」と社長に言われ続け、結局作品が完成しないうちに会社は倒産したらしい)というAさんは、ベトナム戦争フリークで、僕が会社を辞めるとき、ベトナム戦争の頃の米軍がよくつかっていたライターのレプリカを選別としてくれた。
「これ、グッドラックの気持ち、こめてますよ」とタバコを吸いながら言った。
「本当はこのライターに、ナイフで傷でもつけて渡すってのが良いおまじないらしいんスけどね」
そのライターは、今でも、窓辺の日のあたる場所においてある。
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あの頃僕は、とても忙しかったはずなのに、とてもよく歩いた。
埼玉の田舎道を、田園沿いのあぜ道を、夜になると歩き続けていた。
仕事が終わった後、特に何もすることがなかったからかもしれない。
社員寮は、二人でひと部屋とか、交代で廊下で眠るとか、そういった状態だったので、あまり帰りたくなかったのかもしれない。
孤独だとか、つらいとか、そういうことは感じなかったが、しかしなぜか、一人で、歩きたくて仕方がなかった。
虫の鳴く声を聞きながら、草の匂いのする夜道をあるき、川が多い土地だったので、いくつかの橋をわたった。
畑ばかりで、家があまりなかったので、遠くを列車が走っていく音がよく聞こえた。
東京に近い土地、大阪から考えれば、「上京した」と言ってもいい状態だったはずなのに、ほとんどそういう感覚は感じなかった。
だだっ広い田舎、合宿で泊まるような土地に住んでいるというほうが、しっくりと来た。
あの頃の僕にとって東京は(電車で一時間ほどなのに)、とても遠くて、また、忙しすぎて、そこに気持ちが向かう間すらほとんどなかった。
ただひたすらに、夕方までシナリオを書き、夜になると、どこかもわからない田舎道をテクテクテクテク歩いていた。
僕は大きな空白に、手触りの柔らかい霧のようなものの中にいて、そこから、どこに向かっていいのか、わからなかったのだ。
何かをするには、あまりにも、経験不足で、知恵が足りなかったのだとも思う。
僕があの頃、するべきことは、夜中に、テクテクテクテクと、夜道を歩くことではなかったのだと思う。
でもそのときは、そうするより他に、何にも思いつかなかったのだ。
さっきも述べたように、僕の中に沈殿していく物事が、形を持って濾過されるまでには、もっともっと時間が必要だったから。
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僕が制作会社で働いていた頃と比べると、いろんな意味で、関東の状況も、制作会社の業界の雰囲気も、ずいぶんと変わったように思える。
あの頃、僕が旬だと思っていた幾人かの作家たちは、あっけなく消えて行ったし、新しい流れがくると思っていた流れも、ほとんど来なかった。
むしろ世の中は、より縮小化され、狭いコミュニティの「知っていること勝負」のような様相をなし、サブカルチャーはメインストリームとしてあがめられてサブカルチャー的牙を失い、過去への射程をどんどん見失っている。
僕と同期で、それなりに有名になった人もいれば、どうなったのかまったくわからない人もいる。
2006年ぐらいから、2010年ぐらいまで、業界にはひとつの大きな流れがあったと思う。
その前の流れは、2002年ぐらいで一度分断されている。
僕が働いていたのが、2004年前後ぐらいなので、僕はちょうど、2002年ぐらいまでの、ひとつの流れと、2006年からの別の流れとの、中間点のよどみにいたような気がする。
そう思って、目を閉じると、なおさらに僕の記憶の中の、あの、夜道で橋をわたるときに聞いた川の音が、大きな音になって、よみがえってくるような気がする。
Kさんとも、Aさんとも、制作会社を辞めてからは、一度も会っていない。