数日前の7月9日に、エナジーホールで開催された「協働」についてのイベントに参加してきました。
「新しい公共」の説明で、簡単に歴史を追って、小泉改革によって民間委託が増えたことと、その後の政権交代を背景に解説してくれたのが、わかりやすかった。(ちなみに僕は大学生時代、小泉内閣の研究で論文を書きました)
「協働」ってのは、まぁ、官-民の垣根を抽象化する(浸透率を上げる)みたいな感じなのかな、という印象を受けた。
民-民もあるんだけど、結局行政による介入はどこかの階層で存在するという前提だろうし、まぁ、ざっくりと考えると、そういう意味合いがあるんだろう。
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平等な参加を促すなら、絶対に必要なのは、「お互いが噛み合った会話を出来るようになること」だ。
いくら行政と民間のコミュニケーションが活性化しても、共通する前提条件が食い違っていたりしたら、平行線をたどってしまう。
そのためにも、「情報共有センター」のようなものの設置が必要になってくるかもしれないな、と思った。
予備知識無しで議論をするということほど、無意味な浪費はないわけで、まず早めるべきなのは、市民に対する迅速な情報提供、あるいは、情報提供がどこでどのように行われているかという情報を提供すること、だろう。
その上で、官-民のコミュニケーションを活性化していかなくてはならないはずだ。
(もちろん、提供される情報にバイアスがかかっていないことが絶対条件)
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また、このシンポジウム、市民の方々222人が答えてくださったアンケート結果が面白く、「協働には興味があるけど、積極参加したくない」的意味合いの答えが結構多い。
これはなぜか、というのを、ずっと考えていた。
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その心理には、情報過多社会であることによる疲れ、ある種の不可能性というか諦念が漂っていること、あまりにも便利な社会になっていることなどが背景として存在しているのではないだろうか。
まず、現代社会は、あまりにも情報の速度が速く、たくさんの情報を処理するだけで時間がどんどんと浪費されてしまう。
となると、疲れてしまって、食い扶持のための仕事と、家族のこと、あとは耳に入ってくる情報の配分、それで毎日手一杯ということになる。
だから、自分の住んでいる街にかかわる暇がない。
さらに、情報が氾濫しているがゆえ、「思い込みの余地がない」、言い換えれば、幻滅しやすい社会である。
社会学者の見田宗介は、戦後日本を「理想の時代」「虚構の時代」に配分した。
かつて、まだまだ情報が今ほど摂取しにくかったころ、そこには、現実を知ることが出来ない不便性ゆえの思い込み・理想が、リアルなものとして存在していた。
また、その、理想や思い込みが、社会のエンジンにもなっていたはずだ。
しかし、80年代の虚構の時代を経て、今の日本社会は、どうだろうか。
「何をやったって同じさ」という諦念が漂っている。
たしか社会学者の大澤真幸は、そんな現代を不可能性の時代と呼んでいたと思うのだが、なるほど、情報がたくさん入ってきやすいがために、すぐに事実がわかる、化けの皮がはがれる社会である。
便利さと裏返しの、夢のない時代になっている。
だからこそ、「社会に貢献する」という、ある意味では理想のような行為に、想いが向かいにくいのではないだろうか。
そして、交通網の発達である。
交通網の発達・発展により、いつでも地元から都心に出て行くことが出来るようになった。
その結果、「別に自分の街で何かをしなくてもいい」という気分が生まれてきたのではないだろうか。
たとえば、「梅田にジュンク堂があるなら、別に地元で本を買わなくてもいいか、ついでにオシャレなカフェにもよれるし、とりあえず梅田に出ちゃおう」というような心理である。
そういう心理が蔓延しているなら、なるほど、地元の協働には興味はあるが積極参加する気持ちは薄れてしまうだろう。
ようするには、社会に蔓延する無気力病と、地元意識の希薄化が原因ではないかと思うのだ。
余談ですけど、僕の一番最初のキャッチフレーズって、「希望こそキーワード」だったんだよね。
不評なので「守口の忍者」に変えたけど。
この「希望こそキーワード」ってのは、「こんな時代だからこそ、シニカルにならず、もう一度理想を信じるほうが、むしろ経済も発展するんじゃないのかなぁ」っていう含みがあったんだよ。
「理想の時代の精神に戻ろうぜ」みたいな。
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東京一極集中が批判され、今、地方分権が唱えられている。
ならば、地方のそれぞれの都市もまた、地方の大都市への一極集中を批判すべきだろう。