はっとり浩之オフィシャルブログ

2011年6月29日

意図的に遠ざけられた悲しみについて

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 1:19 AM

ジュンク堂にいく(ピルグリムファーザーズとメイソン=ディクソン線に興味があってアメリカの歴史を調べたかった)と、内田樹の「最終講義」が目に入る。

大ヒットした日本辺境論とかはあんまりピンと来なかったけど、「街場のアメリカ論」と「街場の中国論」には感嘆させられたものだ(前にもこのこと書いたね)。

「おぉ」と思ってぱらぱらと立ち読み。

え?

えぇぇ?

この「最終講義」のひとつって、守口市でやったんや!?

かなりびっくりやわ。

確かに内田樹って神戸の人やから近いけど、守口で講演してたんや。

帰りの地下鉄の中で、ふいに、電撃に打たれたようにボブ・ディランの「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ・ベイビー・ブルー」の意味がわかる。

それまでずっと黒人ドゥワップのことを考えていたのに。

そうか、ディランは、「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ・ベイビー・ブルー」まで、「人々に真実を比較的ストレートに教えようとしていた」のだ。

そして、「その行為が無理だ」と悟ったのだ。

ディランは、ブルース的なファーストのあと、「風に吹かれて」や「戦争の親玉」や皮肉きわまる「神が味方」で、一気にプロテストフォークシーンの最前線に躍り出た。

しかし、1965年に、この憂鬱な、「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ・ベイビー・ブルー」を発表する。

どれだけディランが、大切なこと、知っていることを語っても、彼の言葉に耳を傾けてくれるファンですら、彼の言葉をわかってくれない。

それどころか、出所のわからない噂話をすら、信じようとする。

そのことに、消耗し、絶望し、怒り、ディランは、もう、人々にストレートに自分の知っている真実を語りかけることをやめたのだ。

だから彼は、プロテストソングで啓蒙することに決別し、フォークギターをエレキギターというシンプルで攻撃的な道具に持ち替え、そして道具とは対照的に、言葉はもっと、難解で具体性を持たないものへと移行して行ったのだ。

彼は、思いを、ベールの向こう側の森の中に、放り込んだ。

彼はもう、ダイレクトに教えること、わかってもらうこと、啓蒙することを、やめたのだ。

そのことを伝える歌、怒りをこめたメッセージが、「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ・ベイビー・ブルー(もうやめたよ、憂鬱な君よ)」なのだ。

ふいに、痛いほど、その気持ちがわかった。

ディランの雷に打たれたのは、これで3度目だ。

中学生の頃、「雨の日の女」にやられ、大学生になってから、「サンダー・オン・ザ・マウンテン」(あの、不毛なイラク戦争に怒りを感じていた頃、2006年の新曲だったこの歌の『じゃぁ俺らは、孤児院に札束持って出かけよう、俺らの私兵を結成してやるためにな』というきわどく鋭い皮肉にびっくりしたもんだ)にもう一度やられた。

そして、今回の「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ・ベイビー・ブルー」。

3度目の失神。

見事なスリーアウト、俺は、ディランから逃れられない。

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