ジュンク堂にいく(ピルグリムファーザーズとメイソン=ディクソン線に興味があってアメリカの歴史を調べたかった)と、内田樹の「最終講義」が目に入る。
大ヒットした日本辺境論とかはあんまりピンと来なかったけど、「街場のアメリカ論」と「街場の中国論」には感嘆させられたものだ(前にもこのこと書いたね)。
「おぉ」と思ってぱらぱらと立ち読み。
え?
えぇぇ?
この「最終講義」のひとつって、守口市でやったんや!?
かなりびっくりやわ。
確かに内田樹って神戸の人やから近いけど、守口で講演してたんや。
※
帰りの地下鉄の中で、ふいに、電撃に打たれたようにボブ・ディランの「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ・ベイビー・ブルー」の意味がわかる。
それまでずっと黒人ドゥワップのことを考えていたのに。
そうか、ディランは、「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ・ベイビー・ブルー」まで、「人々に真実を比較的ストレートに教えようとしていた」のだ。
そして、「その行為が無理だ」と悟ったのだ。
ディランは、ブルース的なファーストのあと、「風に吹かれて」や「戦争の親玉」や皮肉きわまる「神が味方」で、一気にプロテストフォークシーンの最前線に躍り出た。
しかし、1965年に、この憂鬱な、「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ・ベイビー・ブルー」を発表する。
どれだけディランが、大切なこと、知っていることを語っても、彼の言葉に耳を傾けてくれるファンですら、彼の言葉をわかってくれない。
それどころか、出所のわからない噂話をすら、信じようとする。
そのことに、消耗し、絶望し、怒り、ディランは、もう、人々にストレートに自分の知っている真実を語りかけることをやめたのだ。
だから彼は、プロテストソングで啓蒙することに決別し、フォークギターをエレキギターというシンプルで攻撃的な道具に持ち替え、そして道具とは対照的に、言葉はもっと、難解で具体性を持たないものへと移行して行ったのだ。
彼は、思いを、ベールの向こう側の森の中に、放り込んだ。
彼はもう、ダイレクトに教えること、わかってもらうこと、啓蒙することを、やめたのだ。
そのことを伝える歌、怒りをこめたメッセージが、「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ・ベイビー・ブルー(もうやめたよ、憂鬱な君よ)」なのだ。
ふいに、痛いほど、その気持ちがわかった。
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ディランの雷に打たれたのは、これで3度目だ。
中学生の頃、「雨の日の女」にやられ、大学生になってから、「サンダー・オン・ザ・マウンテン」(あの、不毛なイラク戦争に怒りを感じていた頃、2006年の新曲だったこの歌の『じゃぁ俺らは、孤児院に札束持って出かけよう、俺らの私兵を結成してやるためにな』というきわどく鋭い皮肉にびっくりしたもんだ)にもう一度やられた。
そして、今回の「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ・ベイビー・ブルー」。
3度目の失神。
見事なスリーアウト、俺は、ディランから逃れられない。