原発事故以来、ずっと思ってることだけど、もうそろそろ、進歩史観って終わりじゃないですか?
俺はそう思うけどね。
進歩史観ってのは、要するに、「人類は進歩し続けてる」って合意みたいなもんだけど、それって結局、近代以降の社会が見せてる幻想に過ぎないんじゃないのかなぁって、うすうすずっと思ってる。
だって、直近の話をしても、原子力関係の技術者の能力って、ずっと進化し続けてるの?
「指の技術力」で考えれば、一昔前のほうが、よっぽど優れた「技能者」がいた可能性もある。
結局のところ、「進んでいるのは、理論だけ」かもしれない。
そのことを、そろそろみんな自覚するべきだ。
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僕みたいな、古いジャズの愛好家からすれば、ある時期以降のジャズって、もう、聴くに堪えないわけ。
理論や技術は進んだかもしれないけど、ホットな職人芸と言う意味では、ある時期でとっくに止まっちゃっている。
ロックだってそうでしょ?
70年代以降に、本当に革新的なものってあるの?
映画だってそう。
ヌーベルヴァーグより後に、何があったの?
小説だってそう。
ピンチョンより後に、本当に枠組みそのものを変えちゃったような作家って出てきてる?
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こういう、「進んでる・進んでない」っていう議論自体、「人類の歴史」というもっと大きな観点から見たら、結構狭い視点なわけで(上記の例だって、僕の狭い知識内の恣意的な意見だ)、僕は最近、もう、戦後・戦前とかレベルでものを見るのにも、飽き飽きしてきている。
それなのに今でも、狭い射程距離内であれこれと自己援護と他者否定を繰り返しているような一部の週刊誌・月間総合誌あるいはタレント知識人の議論ごっこって、悩ましいよなぁ。
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よく考えてほしい。
ある時代には、子は親を超えられるんだっていう空気みたいなのがあったけど、そういう空気って、長い歴史上では本当に珍しいのかもしれない。
人類の英知は、蓄積されるけれども、それを操るのは、結局のところ、いついかなるときも、一人の人間だということだ。
蓄積された英知に反して、それを操る人間側は、一人ぶんの人生以上を蓄積することが出来ない。
その感覚を忘れてしまっている、麻痺させてしまっているのが、今の世の中なのかもしれないな。