いつの間にか、ライ・クーダーの新譜が出ているようで、買いたいところだが、そのような暇も金もない。
ライ・クーダーのコンサートには去年行ったが、なかなかよかった。
今年は、ボブ・ディランのコンサートに行ったが、おそらくはせいぜいそれに行くので精一杯であろう。
暇さえあれば、友人のアマチュアバンドのコンサートには顔を出したいと思っている。
人間、助け合いが大事なのだ。
学生時代は、ジャズにのめりこんでいて、とにかく目に付くバーで演奏があれば、しらない店でも知らないミュージシャンであろうとも、飛び込みで聴きに行った。
とにかく聴いていれば、わかってくるだろうという気分だった。
僕は中間派あたりが結構好きで、レコードを集めるならそのあたり、あとはリー・コニッツばかり集めている。
コンサートで今、質の高い中間派を聴くことは難しいだろう。
あれは独特の、1950年代のエートスの中でしか、醸造できないような気がする。
今、普通にコンサーで聴くなら、あえてフリージャズ的なものを聴くのも楽しいような気がする。
と書いたが、もうジャズはあまり興味がなくて、わりと体が疲れる音楽だな、と思う。
学生時代だから、あぁやって全身全霊を傾けて聴くことができたが、いろいろわずらわしい出来事に関わってくると、身を削るような音楽の聴き方はできなくなる。
学生時代に好きで、今聴いてもやっぱり癒えるなぁと思うのは、大阪のフォークバンドとして有名だったディラン・セカンドの『サーカスにはピエロが』だ。
フォークでは、友部正人も好きだったが、やはり友部正人も、今聴くと疲れる。
全身全霊で聴かねばならないからだ。
今考えれば、しかし、どうして僕は学生時代、あんなふうにして、他のすべてを捨てるかのようにしてジャズを聴いていたのか。
それを弾くのならともかく、聴くだけの行為として。
ちっとも意味がわからないのである。
ちっとも意味がわからないので、悔しくもなるのだが、一方で、ちっとも意味のわからない行為が、システム学的に考えても、重要であるような気がしないでもない。
僕は社会システム学など、詳しくはないが、古代から、『本来は直接的な何かを生まない』行為というものは、存在する。
それはしかし、本当に意味はないのか。
「いったいなんだったんだろうねぇ、あれは」
学生時代に趣味で映画製作の真似事をした(カメラ代を抜くと制作費0円)が、その中で僕が言う台詞。
当時僕は、ジュゼッペ・ウンガレッティに心酔していて、今考えると馬鹿らしい話だが、彼の詩集を持って登場をする。
ジュゼッペ・ウンガレッティ、エズラ・パウンド、ジョン・ベリマン……これまた夢中になって詩を読んでいたものだ。
詩など、読めば読むほど情緒不安定になっていく可能性すらあるというのに。
とはいえ、僕はまだ、詩を信じていて、ウンガレッティを読んでる奴に悪い奴などいねーだろうなどと考えてしまう。
詩はある意味では心を豊かにし、見識を広め、一方で人を感傷的にさせ、不安定にもしてゆくだろう。
時間さえあれば、荒川洋二をしっかりと読み込みたいなぁとは思っている。