雑記。
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先日、内田裕也の事を書いたけど、捕まってもーとるやん!
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内田裕也の都知事選のときの演説はすごかったけど、もうひとつ演説(?)で忘れられないのが、昔、聴きに行った、仲井戸麗市の、磔磔でのコンサートのときのトーク。
ギターを弾く手を止めて、「ビートルズは、流行ってなんかいなかったんだ!」と彼が急に言ったとき、僕は妙な真摯さを感じた。
結局のところ、彼が言いたかったのは、自分は、ぜんぜん流行っていないビートルズを聴いていた、ビートルズですらそうだから、ストーンズやキンクスになると、もう名前ぐらいしか伝わってこなかった、それが今、TVは「60年代には日本でビートルズが流行っていた」みたいに嘯く、そのことが変だ。
そういうことだった。
それを、急に、ライブの途中に言って、何を伝えたかったのか、僕にはよくわからない。
でも、わかるかわからないかなんて、問題じゃなかった。
そこには、妙な純粋さがあった。
時々思うのだけど、本筋じゃない部分が肥大してしまうのが、僕は割りと好きだ。
犬の研究書を読んでいたら、急に不思議なソーセージの記述が出てきて、そのソーセージにまつわる大冒険譚になっちゃう、なんてのが結構好きだ(どんな本だろう)。
きっと僕は、断片を、個別として捉えているのだろう。
伏流が本流に回収されることに必然性をあまり感じない。
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仲井戸麗市といえば、もうひとつ、僕がよく覚えていることがある。
それは、彼がものすごく薄汚い服装をしてステージに立ったことだ。
Tシャツ一枚にジーンズという格好で、しかもそのTシャツはよれよれで、首回りがもう伸びきってしまっていた。
ミュージシャンというよりも、浮浪者か金のない学生みたいに見たものだ。
少年時代の僕はそのことが気になって仕方がなくて(だって、派手なイメージの名前とぜんぜん逆じゃん)、「なんで、あんなにだらしない格好をしてるだろうね?」と、隣にいた、僕をコンサートに誘った友人に問いかけた。
すると友人は「そりゃ、ロック音楽をやってるからだろ。ピカピカの服なんて着たらロックじゃないやん」と答えた。
僕は、妙にその回答に感心したものだ。
あ、そっか。
ロックってのは反体制だから、観客にウケるようなきれいな格好をしちゃいけないんだ、と思った。
なんつー汚い格好だ、オーラの欠片もねーな、と僕は思ったけど、それは僕の間違いだったのだ。
彼は、とてもロックスターに見えない格好をすることで、音楽を、舞台という高い位置から引き摺り下ろそうとしているのか、と思ったのだ。
僕は妙に納得して、「あ、そっか。ロックってのは反抗だから、おしゃれなカッコウなんてしちゃいけないんだ!」と思ったのだ。
今考えれば、僕もまだまだ子供で、思い込みの激しい時期だった。
でも、そのときに感じたことは、形をかえつつも、今でも僕の思想信条の中心地に鎮座している。
ロックは逆説でなければならない。
カウンターカルチャーでなければならない。
媚びちゃいけないんだ。
流行の服装をしたら駄目なんだ。
服装だけじゃない。
精神の問題なんだ。
常に、流行や美しいものと対立しなきゃならない。
自分が、体制側に立っちゃうとだめなんだ。
常に、ブルーカラーで、ワーキングクラスでなきゃならないんだ。
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僕は別に仲井戸麗市のファンじゃない(古井戸もRCも結構好きだけど)。
僕は、仲井戸麗市というよりも、「ロックは、きれいな格好をしちゃいけないんだ」と教えてくれた友人の言葉に、深く感心したのだ。
労働者階級の音楽でなけりゃならない、ワイルドでタフでなきゃならない、と、そう思ったのだ。
考えてみれば、僕は、高校生ぐらいの頃から、ずっと、髪を研いだことがない。
それも、やっぱり、「きれいな格好をしたくない」という想いが根底にあるからなのだなぁ。
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でも一方で、クラフトワークもデイビッド・ボウイも好きなんだよ。
それは、クラフトワークの着ている背広も、デイビッド・ボウイの化粧も、オシャレではなく、逆説のためなのだと、感じるからだろう。
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あと、とにかくブルースだって言ってりゃ格好良いって考え方も嫌いなんだよ。
それはそれで、安易過ぎてさ。
ダークでブルーな方向を常に選択しときゃ格好いいってのは、それはそれで、ひとつの体制になっちまっている。
ルーチンワークになっちまっている。
それじゃ駄目なんだ。
常に裏切り続けよう。
その精神が大事なんだ(だからやっぱディランは格好良いんだよな)。