はっとり浩之オフィシャルブログ

2011年5月13日

見る前になんか跳べないのだ、人間は

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 1:48 AM

最近良く考える。

思想とか、生き方とか、これからのこの国のエートスとかと、よく関わる話なんだぜ。

フォークミュージックの本質についてなんだ。

え?

思想とか、生き方とか、これからのこの国のエートスとかなんて関係ないじゃんって?

そう思ってるならそれは君が阿呆なのサ。

文化と思想はいつだって、偉そうなお題目よりも濃密にネチョネチョだから。

最近、よく考えるんだ。

俺の阿呆な頭で、よく考えるんだ。

フォークの本質は、アンガージュなんかじゃない。

「そっぽを向く」こと、「おいらそんなのシラネェや」と言えることなんじゃないかって。

フォークには、二つの二律背信した精神が共同している。

それは、『見る前に跳べ』の熱い精神と、『おいらいち抜けた』の醒めた精神だ。

どうにも最近は、前者が左翼の得意技になってしまっている。

でも俺は、なんだか、「ちょっと違うぜ。そんなに熱かったかい?」と問いかけたくなる。

俺が、左翼に対して感じる疑問は、そういうところにあるのかもしれないし、この、たとえば加藤典彦洋云うところの『純粋まっすぐクン問題』は、いまや、左翼以上に、右翼の特権(病理?)と化している側面すらある。

理路整然とした、過剰な純粋正義論神話を語らない限り、右も左も、一定の支持をえられない……そんな病理が、多くの政治家の「演ずることへの妥協」を促し、内包しながら、止まらない夜汽車のごとく、突進している。

だからこそ僕は、もう一度、かつてのフォーク精神を、『おいらいちぬけた』だと再定義してみたいのだ。

この、醒めた距離の取り方こそが、思想史上類を見ない斬新さであり、本当に若者の、戦後の人々の、共感を生んだのではなかっただろうか?

思い出してみるがいい。

ディランは、世間の期待を裏切り続けることでアイデンティティを確保してこなかったか?

岡林信康はどうだ?

加川良の「教訓Ⅰ」のメッセージは、「白けてみること」(=醒めて距離をとること)ではなかったか?

ディランセカンドの唄った、「男らしさは、ピエロや臆病者のこと」とは、なんだったのか?

しらける=醒めて距離をとる、から、実利主義までは実は近い。

今あることに背を向けること、義務から「逃げてみる」こと、試してみること、本当に有効な手段を模索すること……。

もしも仮に、戦後の文学に新しく出現した独自なテーマが、どこかで、「探索すること」に通じていたら……「無意味な探索」も含めて……。

模索と探索ということ、時間観念、「おいらいちぬけた」、は、どこかで繋がっているのかもしれない。

そして。

今の世の中が、変質し、まるでかつての右翼が左翼、かつての左翼が右翼に僕には見えるのは、それらが表裏一体で、交換可能で、そことは違う次元に「忙しさ」という新しさ、『時間概念の圧縮』という事件(コンピューターネットワークの整備などにより、瞬時性が向上し、人々が情報過多社会の中で、逆に時間に拘束され、あるいは、時間がタイトになって、ゆっくりと考えられなくなった)が、深く関わっているような気がする。

だから。

僕は、今の時代に、もっとも有効な逆説のテーゼとして。

無意味(最終的に「功を奏さない・深謀遠慮のない」)な正義漢精神の横溢する世の中に対して。

「おいらいちぬけた」と唱えられる豊かさを標榜したいのだ。

そう、きっと、大江の健ちゃんだって、困っていたさ。

「見る前に跳んだりしたら、ホンとはえらいことになっちゃうよ~(汗)」

と。

彼自身、僕から見たら、「見る前に跳んだりしたら、ホンとはえらいことになっちゃうよ~(汗)」を伝えるために、ある時期以降の幾多の作品を描いてきた。

そして、なぜか世の中は錯倒し、見る前に跳ぶ連中が、見る前に跳んだ経験者を頭ごなしに否定している。

こんな堂々巡りから、僕たちは、新しい頭で逃げ出さなくちゃならない。

見る前になんか跳べないのだ、人間は。

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