ビンラディンが殺害された。
不思議な気持ちだ。
というよりも、ひとつも、出口に来た気がしない。
「どうなるんだろうね?」
と、問いかけたい気分だ。
ビンラディンが死んで、テロは消えるだろうか?
消えないだろう。
むしろ今後、「報復」という名前の大義名分の下、さらなる激化がなされるかもしれない。
明らかに、米国とイスラム社会は、泥沼の袋小路に至っている。
僕は無論、過激派を容認しない。
だが、「テロとの戦い」もまた、虚しい消耗戦であるように思われてならない。
目に見えないものに対して握りこぶしで闘っているようにすら見える。
もう、この戦いは、出口がないのではないのか。
米国は明らかに、亡霊あるいは、「概念」あるいは、「行為」と闘っている。
「概念」と「行為」に対して、物理的な攻撃は、出来るのだろうか?
米国は、どこへ行くのだろうか。
解決方法は、ないのだろうか。
※
思えば、僕のこの10年間は、イラク戦争という「概念」とともにあったように感じられる。
人生のどの時点を切り取っても、僕の心の片隅には、イラク戦争という「概念」が寄生していた。
そのことは、僕とこの10年間を共にしてきた友人たちなら、誰もが認めることだろう。
僕がどれだけ、頻繁に、「イラク戦争」という言葉を口にしてきたことか。
病的なほどだ。
僕の、大学における研究の記憶も、おおよそ、鵜飼教授の授業で、湾岸戦争の知識の手ほどきを受けたことからはじまっている(湾岸戦争からイラク戦争は、地続きである)。
僕は、反イラク戦争の小説を何本も、個人的に書いた。
酔えば必ず、イラク戦争について話してきた。
※
これから、世界は、どこへ行くのか。
少し前よりも、最近、もっとわからない。
すべてが不透明だ。
※
僕が望むのは、9.11以前の、世界だ。
どうやったら、時計の針を戻せるのか。
何度も書くけれども、僕は過激派の肩を持つわけではない。
ただ単に、ブッシュの扇動した「あのやり方」は、米国にとって「マズかった」と言いたいだけだ。
僕は、アメリカに対し憧憬を持つ人間だ。
もう一度、世界の秩序を、少しでもいいから、今よりも、穏やかにしたい。
テロとの「戦争」が、終わることを、強く願う。