はっとり浩之オフィシャルブログ

2011年3月10日

アメリカ、いくつものアメリカ

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 10:08 PM

家に帰って、「RCA原盤カントリー100選」を聴きながら、アメリカについて考える。

アメリカ。

いくつものアメリカ。

アメリカについて考えると、少なくとも3種類の違った姿が思い浮かぶ。

ポストモダンで知的な……学術の都としてのアメリカ。

戦争好きで、マッチョな、馬鹿らしいアメリカ。

放浪の人々の、わびしく乾いたアメリカ(これが僕の好きなアメリカだ)。

アメリカ以外の国から、そんなにいろんな違った顔を感じる事はそうそうない。

アメリカのことを、歴史の浅い国だから、単純な国だと看破してしまう人がよくいるが、僕はそれは違うぜと思う。

その国家の複雑さは、基本的に歴史の道程の長さには関係がない。

時間というものは、人の営みを、意図も簡単に忘却させてしまう。

僕たち人間は、DNAで祖先から連綿と繋がっているけれども、自分のいなかったころのことを思い出すことはできない。

歴史は、建造物を何とか残すけれども、その本当の意味を、違う時代の人間は、推測できない。

僕たちが、歴史のつながりののみで複雑さを獲得するという考え方は、あまりにも単純だ。

そのような理論では、たとえば、20歳の作家の作品は、すべからく30歳の作家の作品よりも単純だということになってしまうよ。

僕は、アメリカは、病的に複雑な国家だと思っている。

その偏執狂的な複雑さこそが、アメリカの本質ではないかとすら思えてしまうことがある。

さて。

カントリーヒッツをざっと聴いた後、トラッドフォークのレコードをターンテーブルに乗せる。

わびしいギターの爪弾きが聞こえてくる。

カントリーとフォークは、似ているようで、違っている。

フォークには、カントリーよりももっとわびしい、やりきれない諦念のような感情が漂っている。

ふいに、日本のフォークが聴きたくなり、高田渡の「系図」をかける。

ぽつぽつと語る、自分語り。

そうだ、日本のフォークでも、こういう音楽は、アメリカのわびしいトラッドフォークに、とても近接しているんだ。

フォークミュージックは、打倒米帝だったけど、その根底には、戦後の日本人の抱え持っていた、アメリカへの、「やりきれない憧憬」が脈打っている。

彼らは、アメリカのリズムを使ってアメリカと闘い、あるいは、自己の中の、やるせないアメリカ愛と闘っていた。

あるいは。

アメリカの抱え持つ、フォーク音楽的なものこそが、そもそも、「アメリカの中に巣食う反アメリカ」なのかもしれない。

時々、真剣に、そう思うのだ。

アメリカ、大きな、矛盾した国家。

いくつもの層から成り立つ。

レメディオス・バロの描くところの、「大地のマントを織り紡ぐ」国家。

トマス・ピンチョンが、アメリカの上にもうひとつの仮想国家を描いたかのように。

やるせない、憧憬。

アメリカ、いくつものアメリカよ。

お前は。

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