はっとり浩之オフィシャルブログ

2011年2月28日

ブルースを発車させよう。

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 12:17 AM

今日は、会議のようなものをしていました。

どうしても自分で司会進行をしようとしてしまうけど、経験の浅さが露呈する事態に。

だめだなぁ。

学生の頃の部活とかで、進行役ぐらいやらせてもらっときゃよかった。

僕はそういう役目をやったことがないのだ。

考えてみたら、学生時代、僕は、演劇に関する部活しかやってこなかったような気がする。

中・高と舞台劇をやってきたし、大学では放送部だったけど、お昼の放送よりも、放送祭で発表する自主制作映画の製作に夢中になっていた。

演じることを続けていたら、どんどん自分が演劇的な人間になっていくはずなのに、むしろ僕は、どんどんと目立たない人間になっていっているような気がする。

今の僕を見て、過去に舞台に立っていたり、自主制作映画で主演していただなんて、信じる人がいるだろうか。

いないような気がする。

僕はどんどん素朴になっていく……もともとそうだったのかもしれないけど。

でも、よく考えてみたら、僕は、自分がずっと演じてきたから、他人の演じることにも敏感になってしまった。

他人が「演じている」のを見ると、それがどういう演技か、なんとなくわかってしまう。

そして、見透かしてしまって、嫌気がさしてくる。

コミュニケーションの取り繕われたうわべに対する深い嫌悪感が、心のそこに芽生えて行ったのだ。

そして、その気持ちによって、僕は僕自身が、演じていない人間であることを望むようになった。

だから僕は、演劇を経験すればするほど、演じられなくなり、素朴でありたいと願うようになっていったのだ。

僕は地味なのは、幼い頃に演じていた経験の反動なのだろう。

「キミは煤けている」

と、友人が僕に言った。

僕は怖くなり

「マッチョでならなければならないのに」

と答える。

友人は、

「人の性質はどうしようもないさ」

と言う。

僕は

「僕は昔から煤けていた?」

「しけてるよ。煤けているというよりも、しけてるんだ。でも、以前のほうが覇気はあったかも」

「そっか……」

友人は、フォークが好きな人間が、元気いっぱいなわけはない、それはもう、性質上仕方がないことだという。

ジェリー・ジェフ・ウォーカー、ランブリング・ジャック・エリオット、ディブ・ヴァン・ロンク、ボブ・ディラン、URCの日本人たち……最近また、フォークばかり聴いている。

子供の頃から僕は、カントリーミュージックが好きだった。

カントリーと、ブルースと、ジャズと、フォークはよく似ている。

特に、ブルースとジャズ、カントリーとフォークは似ている。

ブルースとジャズは、デルタの……泥と湿地帯の匂いがするところが似ている。

カントリーとフォークは、ホーボーの……草の匂い、乾いた土の匂い、放浪者の醒めた自由の寂しさの匂いが似ている。

僕は、自由が好きだ。

その自由は、アメリカ中流階級家庭的な自由とはちょっと違っているし、自由民主党の自由でももちろんない(その二つはちょっと似ているね。前提として、どこかで誰かが傷ついていることとか、『工程が見えないまま、平和や幸せがポンッと目の前に置かれている』ような、無批判な姿勢とか)。

そんなふうな押し付けがましい自由ではなくて、もっと暖かくて個人的な自由だ。

流れ者の、放浪の人の、孤独な自由。

カントリーとフォークミュージックの、誰にも傅けないさびしい自由。

一人でいることの、厳しさが、その代わりの、自由が、とても好きだ。

コメントはまだありません

コメントはまだありません。

このコメント欄の RSS フィード

コメントフォームは現在閉鎖中です。

Powered by WordPress