今日は、会議のようなものをしていました。
どうしても自分で司会進行をしようとしてしまうけど、経験の浅さが露呈する事態に。
だめだなぁ。
学生の頃の部活とかで、進行役ぐらいやらせてもらっときゃよかった。
僕はそういう役目をやったことがないのだ。
考えてみたら、学生時代、僕は、演劇に関する部活しかやってこなかったような気がする。
中・高と舞台劇をやってきたし、大学では放送部だったけど、お昼の放送よりも、放送祭で発表する自主制作映画の製作に夢中になっていた。
演じることを続けていたら、どんどん自分が演劇的な人間になっていくはずなのに、むしろ僕は、どんどんと目立たない人間になっていっているような気がする。
今の僕を見て、過去に舞台に立っていたり、自主制作映画で主演していただなんて、信じる人がいるだろうか。
いないような気がする。
僕はどんどん素朴になっていく……もともとそうだったのかもしれないけど。
でも、よく考えてみたら、僕は、自分がずっと演じてきたから、他人の演じることにも敏感になってしまった。
他人が「演じている」のを見ると、それがどういう演技か、なんとなくわかってしまう。
そして、見透かしてしまって、嫌気がさしてくる。
コミュニケーションの取り繕われたうわべに対する深い嫌悪感が、心のそこに芽生えて行ったのだ。
そして、その気持ちによって、僕は僕自身が、演じていない人間であることを望むようになった。
だから僕は、演劇を経験すればするほど、演じられなくなり、素朴でありたいと願うようになっていったのだ。
僕は地味なのは、幼い頃に演じていた経験の反動なのだろう。
※
「キミは煤けている」
と、友人が僕に言った。
僕は怖くなり
「マッチョでならなければならないのに」
と答える。
友人は、
「人の性質はどうしようもないさ」
と言う。
僕は
「僕は昔から煤けていた?」
「しけてるよ。煤けているというよりも、しけてるんだ。でも、以前のほうが覇気はあったかも」
「そっか……」
友人は、フォークが好きな人間が、元気いっぱいなわけはない、それはもう、性質上仕方がないことだという。
ジェリー・ジェフ・ウォーカー、ランブリング・ジャック・エリオット、ディブ・ヴァン・ロンク、ボブ・ディラン、URCの日本人たち……最近また、フォークばかり聴いている。
子供の頃から僕は、カントリーミュージックが好きだった。
カントリーと、ブルースと、ジャズと、フォークはよく似ている。
特に、ブルースとジャズ、カントリーとフォークは似ている。
ブルースとジャズは、デルタの……泥と湿地帯の匂いがするところが似ている。
カントリーとフォークは、ホーボーの……草の匂い、乾いた土の匂い、放浪者の醒めた自由の寂しさの匂いが似ている。
僕は、自由が好きだ。
その自由は、アメリカ中流階級家庭的な自由とはちょっと違っているし、自由民主党の自由でももちろんない(その二つはちょっと似ているね。前提として、どこかで誰かが傷ついていることとか、『工程が見えないまま、平和や幸せがポンッと目の前に置かれている』ような、無批判な姿勢とか)。
そんなふうな押し付けがましい自由ではなくて、もっと暖かくて個人的な自由だ。
流れ者の、放浪の人の、孤独な自由。
カントリーとフォークミュージックの、誰にも傅けないさびしい自由。
一人でいることの、厳しさが、その代わりの、自由が、とても好きだ。