この数日、いろいろなことが頭を回っている。
死んでしまった人のこと、昔よく聴いたジャズ、パブロピカソ、僕の20歳のころ……。
20歳になったとき、僕は大学を途中で逃げ出して、埼玉に向かった。
シナリオライターになるためだった。
何もかも面白くなくて、とにかくどこでもいい、逃げ出したくてたまらなかった時期だった。
僕はよく、八島の交差点の陸橋の上に立ち尽くして、ぼんやりと自動車の列を眺めていたものだった。
あのころ、僕にはやることが何も無くて、本を読むか、音楽を聴くか、それ以外は何時間もそうやってぼんやりと過ごしていた。
とにかくいろんな物事に腹が立って仕方が無い時期だった。
誰だって一度は、そういう時期が、若いころにはやってくると思う。
むしろ若いうちに、「怒りの季節」を体験していない人は不幸だ。
ずっと大きくなってから、いびつな怒りを発露してしまうかもしれないから。
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とにかく、20歳のころの僕は怒りやすかった。
自分でも不思議だった。
何か、食事に変な興奮物質でも入っているのだろうか?と疑ったほどだ。
なんとなく応募したオーディションに合格して、急にシナリオライターになってしまったのはそんなころだった。
今でもよく覚えているんだけど、僕は、ケンウッドのCDウォークマンをかばんに詰め込んで、そこにアート・ペッパーのCDをセットして、新幹線に乗っている間、ずっとそれを聞いていた。
たまらなく、ジャズが輝いて感じられていたころだった。
今はもう、そんな情熱をとっくになくしてしまったけど、20歳のころ、僕はジャズが本当にまぶしく見えていた。
サックスのワンフレーズ、ベースのちょっとした絡み方、ピアノのバッキングのほんのちょっとした呼吸、そんな微細な差異に、僕は夢中になっていた。
僕にとって、あのころ、レスター・ヤングはヒーローだった。
「戦争の後遺症で精神的に病んでしまった」という悲劇振りがたまらなく酔わせた。
戦後、不安定な演奏が増え、アメリカのバーで働けなくなり、パリにエグザイルするも、定住できず、結局もういちどアメリカに戻ってすぐに死んでしまう。
そんな、放浪の人にすらなれない弱さが好きだった。
レスターの、聴くに堪えない戦後のレコードを聞いては、その弱弱しいうめきのようなサクソフォンに、「人の弱さとはこれなんだ」、という感銘を受けていた。
そのころ、僕は、「人間は壊れやすい」ことを、誰もが知っていると思っていたのだ……。
でも、今、あの20歳のころからずっと歳を取って、人の壊れやすさというのは、多くの人々にとっては、かなりどうでもいいことなのだということを、実感している。
多くの人々は、戦後のレスターの不安定な演奏を聴いて、その不安定さが、不安定であるがゆえに人の感情を見事に表現している、だなんて思わない。
多くの人にとって、それはただの、壊れた演奏に過ぎない。
僕は、ずっと、そういう、「壊れてしまいやすいものの抱える、壊れた結果の、逆説」を掘り下げようとして必死にやってきたが、残念なことに、世間のほとんどの人は、ある壊れてしまったものから、その先を感じ取ろうとは、しないのだ。
それは僕にとっては、とても残念なことだ。
僕自身が、理解されないことでもあるからだ。
僕は、そうやって、壊れ物ばかり見つめてきた結果、自分も少し、傷を負ってしまった。
僕はその傷を、自分が先に進んだ証だと思っているけれど、世間から見ると、僕はただ単に、劣化しているのかもしれない。
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でも、なにはともあれ、20歳のころ、ライターになって上京したとき、僕には本当に何も無かった。
僕が入社したのは、小さな制作会社で、今はその会社はとても巨大になったけど、僕が入ったころは、マンションの一室が製作現場だった。
僕が入社して最初にした仕事は、ゴミだめの様になったそのマンションの一室を、掃除することだった。
ちょうどひとつの作品が終わった直後で、製作現場は汚れに汚れていた。
僕は必死になって掃除をして、掃除が終わったら、お駄賃だ、と言って、社長が部屋の脇に積んであったエロ本を一冊くれた。
そのことが妙にうれしかったのを覚えている。
会社には寮があったが、この寮もまた、マンションの一室を借りていただけなので、一部屋に4人の社員が暮らす羽目になった。
いわゆる、共同生活というやつだった。
楽しい話題なんて何一つ無かった。
犬のように食べて、寝て、それ以外の時間は仕事をして。
映画を見ることも、レコードを聴く事もできなかった。
それからしばらくして、社員が増えてきたので、会社はもうひとつ寮を借りた。
僕がそちらに移ると、なんとガスが入っていなかった。
お風呂に入ることができないので、相当に困り果ててしまった。
川のそばのうす汚いアパートで、梅雨の時期には、床にカビが生えた。
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希望に燃えて、新幹線で上京したけど、ライターをやめて深夜バスで大阪に戻ってきたときは、惨めだった。
ライターの仕事が忙しすぎて、ものを買う暇すらなく、働いた給料で手に入れた持ち物といえば、自転車ひとつっきりだった。
その自転車だけはせめてもって帰ろうと思ったのだけど、深夜バスの運転手に、「そういうものは、ほかのお客の邪魔になるから、積まないでね」と注意されてしまった。
何をぬかしてやがる、バカやろう、徹夜続きで働いて手に入れたものだぞ、と怒鳴っても無駄だった。
結局、唯一の財産である自転車は、新宿駅に捨てて帰ることになった。
行きに聴いていたCDは、安給料に困って、売ってしまっていた。
僕は本当に、何も無い状態で、大阪に帰ったのだった。
難波駅に、明け方に降り立って、あまりにも大阪の空が汚れていたのを覚えている。
その空は、東京よりも、埼玉よりも、確実に、もっと汚かった。
あぁ、こんなにも大阪は煤けているのか、と思った。
僕のこの印象は、正しかったようで、後に、タクシーの運転手から聞いたのだが(タクシーの運転手の情報は、結構正しいことが多い。たくさんラジオを聴いているからだろう)、当時の大阪は、排気ガスに対する取り組みが、関東に比べて、相当に遅れていたらしい。
※
死んでしまった井上さんのことを考えていたら、自分のライター時代のことを思い出してしまった。
というのも、井上さんも、ライターだったからだろう。
彼は、新聞の記者だったみたいだけど。
僕たちみたいに、ものを書いていたら、きっと感性は、「掘り下げる」方向へと向かっていく。
なぜなら、芸術は拡散ではなく、洗練だからだ。
(もちろん、ものを書くことすべてが芸術とはいえないかもしれないけれども、ものを書く人は、きっと、芸術に興味がある)
そして、難しいことに、洗練は時には、洗練に見えないこともある。
ピカソが、「子供のように描きたい」と訴えたように、平明さ・幼稚さという、「再びの地平」に顔を出す「リターン」こそが、本当に洗練された芸術だったりする。
でも、その、本当の洗練は、時折、理解されない。
そのことに悩んでしまう限り、僕はまだ、根っこの部分で、ライターなのだろう。
あのころ、僕は、物理的には何も持たなかったが、性質というものは、獲得をしていたのだ。