はっとり浩之オフィシャルブログ

2011年1月9日

生活が好きになってきた

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 12:59 AM

町内会の掃除の手伝いに遅れてしまった。

最近、疲れがたまっている。

しかし、遅れてしまったのは残念だ。

先日友人と喫茶店で話していたのだが、驚くほどに、町内会の手伝いが楽しい。

僕は基本的に、単純な体を使う作業が好きなのだ。

戦略的な物事は、苦手なのだ。

おべんちゃらなんて、この世から消えてほしいと思う。

みんな本音だけで話せば良いのに。

体に密着した、生活が好きになってきた。

言い換えれば、夢見る季節が終わったということだ。

もはや、イデオローグは不必要だ。

むしろ、それを骨抜きにせねばならない。

視点をどんどんミクロにしろ。

身体性を重要視せよ。

いかに小さな単位とて、偏在性は変わらぬ。

最近、このブログにも平気で詩を載せる気分になってきて、それが思ったよりも好評で、自由で、楽しい。

やはり、アフォリズム的なところに、僕は、本質がある。

僕の書く詩のほとんどは、昔から、政治に関する詩だ。

政治だけではない、いろいろな、問題のことを書いている。

でもそこには、特定の答えやモチーフは無い。

むしろ、そんなもの、あってはならない。

僕が人に詩を見せるのはなぜか?

答えが無い現実へ向かう、という思考法を、共感してほしいからだ。

真実は、ひとつじゃない(僕は昔からコナン君が大嫌いだ)。

だから僕の言葉は、状況的で、包括的で、抽象的なのだ。

どろっとした星雲のごとき「事実のような何か」を、すっかりそのまま「状況する」しかないのだ。

ソシュールはやっぱり、偉い。

そんなわけだから、すぐに答えを見つけようとする、昨今の世論や傾向には、僕はいつだって反対している。

美しいものが美しいとは限らない。

棘のあるものが刺すとは限らない。

その形が、それだとは限らない。

「答え探し」こそ、現代人の知性の劣化の証左である。

昔、ロバート・キャパについて、「甘さへの飢餓」という概念を持ち出して語ったことがあった。

面白いふりや、悲しいふり、深刻なふりというのは、この世の中にあふれている。

けれどもそれらは、本当はほとんどが、「ポーズ」に過ぎない。

そうではなく、面白くないのに面白いもの、悲しくないのに悲しいもの、深刻じゃないのに深刻なもの、こそが、本当に面白かったり、悲しかったり、深刻だったりするのだ。

ただ甘いものと、甘さへの飢餓があるものとは、根本的に違うように。

そして、それら本物と擬似品を比べられる尺度は、かつては絶対に、(おかしな品格などに毒されていなかったころの)実感・庶民性であったはずなのだ。

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