町内会の掃除の手伝いに遅れてしまった。
最近、疲れがたまっている。
しかし、遅れてしまったのは残念だ。
先日友人と喫茶店で話していたのだが、驚くほどに、町内会の手伝いが楽しい。
僕は基本的に、単純な体を使う作業が好きなのだ。
戦略的な物事は、苦手なのだ。
おべんちゃらなんて、この世から消えてほしいと思う。
みんな本音だけで話せば良いのに。
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体に密着した、生活が好きになってきた。
言い換えれば、夢見る季節が終わったということだ。
もはや、イデオローグは不必要だ。
むしろ、それを骨抜きにせねばならない。
視点をどんどんミクロにしろ。
身体性を重要視せよ。
いかに小さな単位とて、偏在性は変わらぬ。
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最近、このブログにも平気で詩を載せる気分になってきて、それが思ったよりも好評で、自由で、楽しい。
やはり、アフォリズム的なところに、僕は、本質がある。
僕の書く詩のほとんどは、昔から、政治に関する詩だ。
政治だけではない、いろいろな、問題のことを書いている。
でもそこには、特定の答えやモチーフは無い。
むしろ、そんなもの、あってはならない。
僕が人に詩を見せるのはなぜか?
答えが無い現実へ向かう、という思考法を、共感してほしいからだ。
真実は、ひとつじゃない(僕は昔からコナン君が大嫌いだ)。
だから僕の言葉は、状況的で、包括的で、抽象的なのだ。
どろっとした星雲のごとき「事実のような何か」を、すっかりそのまま「状況する」しかないのだ。
ソシュールはやっぱり、偉い。
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そんなわけだから、すぐに答えを見つけようとする、昨今の世論や傾向には、僕はいつだって反対している。
美しいものが美しいとは限らない。
棘のあるものが刺すとは限らない。
その形が、それだとは限らない。
「答え探し」こそ、現代人の知性の劣化の証左である。
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昔、ロバート・キャパについて、「甘さへの飢餓」という概念を持ち出して語ったことがあった。
面白いふりや、悲しいふり、深刻なふりというのは、この世の中にあふれている。
けれどもそれらは、本当はほとんどが、「ポーズ」に過ぎない。
そうではなく、面白くないのに面白いもの、悲しくないのに悲しいもの、深刻じゃないのに深刻なもの、こそが、本当に面白かったり、悲しかったり、深刻だったりするのだ。
ただ甘いものと、甘さへの飢餓があるものとは、根本的に違うように。
そして、それら本物と擬似品を比べられる尺度は、かつては絶対に、(おかしな品格などに毒されていなかったころの)実感・庶民性であったはずなのだ。