はっとり浩之オフィシャルブログ

2010年12月28日

愛と感性のミメーシス。

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 12:19 AM

夜八時半ぐらいから、某お店の積荷を下ろす作業を手伝っていました。

体を動かす作業が好きなのです。

大学院で勉強していた頃、「ベンヤミンは、今後絶対にものすごく重要になってくるぞ」と思っていました。

その勘が、間違っていなかったのだと、最近確信を得つつある。

ヴァルター・ヴェンヤミンは、「アウラ」概念でも有名だが、「ミメーシス」という概念を論じたことでも有名だ。

ミメーシスは、ある種の複製や模造のことを指す。

ちょっと言い換えれば、ある種の影響力によって人が変化していく(影響力を持つ人に似ていく)ということでもある。

要するに、「感染」である。

最近読んだ本の中でダントツに面白かったのは、大澤・宮台の「マンスリー・シンキング O 正義について語ります」だが、そこで宮台は、 人にミメーシスを引き起こさせたいなら、排利的でなければならないと語っている。

利益を伴わない、非自己中心的行為のみが、真にミメーシスを引き起こす、と。

私の考え方は、ちょっとだけ違う。

向こうの排利的行為が、ミメーシスを引き起こすのではない。

『ミメーシスは、こちら側にとって排利的感染であるとき、真のミメーシスである』のだ。

わかりやすい例を挙げよう。

僕はここ1年間ほど、とある人の真似をしようと勤めてきた。

なぜその人の真似をしようとしたのか?

それは、「そうしたほうがうまくいきそう」だったからだ。

しかし、僕自身は、その人のことをちっとも尊敬していなかった(というか軽蔑していた)。

軽蔑の対象の真似をすることは、恐ろしい苦痛である。

この自己利益を優先した行為は、私に、ミメーシスの実感を何一つ感じさせなかった。

ところが最近、リスクを無視して、「あ、真似をしたいな」と思える人が、何人か現れてきた。

私は、あまり人からの影響を感じることがこれまでなかったのだが、最近、二人の人から、強いミメーシスを受けている。

KさんとMさんだ。

Kさんのおかげで、最近毎日ジャージである。

Mさんと飲んでから、どんどん発言が過激になっている(今日、僕が積荷を待っていたとき、クラクションを鳴らして車で通り過ぎて行ったあなただ)。

彼ら二人に対して、ミメーシスを感じることは、どちらかといえばリスキーな選択である。

しかし、だからこそ、私はそれを本当のミメーシスだと感じている。

真のミメーシスとは、「その模倣が、自分自身にとって利益的であるかどうかわからない、でも真似をしたくなる」ことではないだろうか。

私も、誰か、他人に対して、強烈なミメーシスを、引き起こしてみたいものである。

ここしばらく書いてきた詩(趣味で、定期的に詩を書いているのだ。出版社から小さな賞をもらったこともあるけどね)で多いテーマは、ミメーシスと偏在性だ。

数日前にここに載せた「でもそんなの朝だけのことさ」も、ミメーシスがテーマのひとつになっている。

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