今日は、後半に、結構突っ込んで重要なこと書いてるので、よく理解して読んでね。
タイトルをクリックしたら、全文読めるからね。
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今日、外を歩いていたら、NHKの人と出会った。
お互い、寒い中やっているので、励ましあった。
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駅前で、えらい格好いいフォーク調の歌をやっている二人組に遭遇。
「うわっ、ええやん!」と思っていたら、「プカプカ」を歌いだした!
「プカプカ」というか、ディランセカンドのファーストは、私の青春である。
お二人さん、応援します!
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昨日の議論を、もうちょっと深めてみよう。
私は、時折誤解されるが、国家を愛する人間である。
日本がもっともっと豊かになることを目指している。
日本人が有名になればうれしいし、何の順位を見ても、日本人がちょっとでも上位に食い込まないかな、と探してしまうタイプの人間だ。
ただし、愛国主義を宣伝の道具に使うことが大嫌いなのだ。
だから、宣伝のための擬似愛国主義は過激ではないので、批判する。
同じように、宣伝のため、哀れみを買うための擬似左派も、批判する。
沈黙にこそ本質がある、ということを理解し得ない立場を、私は批判するのだ。
そもそも、現代において、右と左の概念の複雑さを、理解しえずに語る人々が多くて、辟易する。
本来、総合的な、右・左は無い。
あるのは、各論ごとの右・左だけである。
そのことを、しっりと理解しなくてはならない。
簡単な話をしよう。
ジョン・レノンを聴く行為は、右か、左か?
反戦的だという意味では、革新的かもしれない。
だが、「今、古いジョン・レノンをあえて聴く」という意味においては、それは、保守的行為なのである。
私は、昔から自分を、同世代ではほかに類を見ない保守的人間であると自負している。
真空管アンプとレコードプレイヤーで音楽を聴き、戦前のジャズを収集し、第3の新人あたりの小説を耽読している。
これが、保守的人間でなくて、いったいほかの何だというのか。
しかし一方で、私は、戦争嫌いであり、権力嫌いである。
そういう点は、革新的であるかもしれない。
このように、一人の人間は、右と左、両面を複雑に兼ね備えている。
私に言わせれば、状況を変革させようとしている点において、橋本徹は左翼的である。
そのことに、皆さんは、気がついているのだろうか。
私は個人的には、自分は、自由主義者だと思っている。
締め付け・規制に反対するからである。
締め付け・規制への反対において、実は、ある種の自由主義は、革新的である(だからこそ、ネオコンの一部の出自は、ニューヨークトロキツィストだ)。
しかし、自由主義者の市場に対する振る舞いは、格差の推進へと向かう傾向があるので、格差の是正を望むマルクス主義者とは対立する(ちなみに、みんなの党は、市場主義政党である)。
一方で、締め付け・規制の強化は、ある種の保守層が好む。
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私は、締め付け・規制の「強制」には猛烈に反対する。
そういうと、すぐに革新と勘違いされるが、残念ながら私は、保守である。
というのも、私は、「地域のつながりの緩やかな強化」を望んでいるからである。
「強制の無い」規制強化が、私の根本である(そしてそれは、地域共同体に、理性と知性の強化を促す。わかりやすくいえば、法による規制よりも、良心による抑制を推奨するのである)。
これは、いうなれば、自由主義的保守である。
それゆえに、私は、国家愛よりも、郷土愛を推奨する。
素人が、国家像を無理やり語ろうとするとき、馬鹿保守・馬鹿左翼に成り下がりやすくなる。
私は、保守も左翼も、それ自体はただの思想に過ぎないので、批判しない。
それらが、「馬鹿」になったときに、批判するのである。
そして、素人が国家を語ろうとしたとき、馬鹿に成り下がりやすい理由は、国家に対する身体的実感の欠如による。
それゆえに、私は、実感を伴った行為のやりやすい愛郷主義(郷土愛者)を推奨するのである。
国益のためなのである。
強制を推奨しない、パトリオティズムが、私の望む市民像である。
その意味で、私は、中道保守であり、無意味に極端な右派と左派両方を、その無意味さにおいて、批判できるのである。