グローバリゼーションが原因なのかどうかは、実はわからないとも思うんだけど、今、社会から個性が消えている。
いいや、言い方を変えてみようか。
みんな、個性を、「消そうとしている」。
広告にはあれだけたくさんの「自分らしさ」や「自分探し」が踊り狂っているというのに。
なぜなら、その「自分らしさ」とは、「制限つきの自分らしさ」に過ぎないからだ。
言い換えれば、「受け入れられる範囲内での自分らしさ」である。
昔から、たとえばコムデギャルソンの手法は、「制限の中での過激な挑発」といわれてきた。
確かに、現代の若者たちのファッションにも、ある種の制限の中での挑戦・挑発が絶妙に功を奏している。
それ自体は、悪いことではない。
しかし、僕がここで言いたいのは、制限つきであれなんであれ、挑発・挑戦の結果が、「美しいものを作る」ことにしか向かっていないことの不自由さだ。
本来、その存在そのものが、審判なしに美しいものはありはしない。
審判するものが存在して、初めて、美しさは認識される(言い方が不当だな。美しさは、顕現する、とでもいおうか)。
つまりは、誰かがあるものを見て「これは美しい」と宣言しない限り、「それそのものが美しい」ものはありえないのである。
考えてみろ。
犬にとって美しいものが、君にとって美しいとは限らない。
このように、「美しい」という概念は、実は、地に足が着いていない概念である(だから私は、めったに、美しいという形容詞を使用しない)。
美しくないという挑戦をする挑発製という意義によって、私は、認められやすい制限の中で挑戦的ファッションをする人と、手鼻をかみ、しらみの沸いた頭で歩く人とを、同じように評価する。
認められない、という挑戦をしているからである。
今の社会は、「認められない行為や存在」になることを、恐れすぎている社会であるように見える。
だからこそ、本当の意味での自由や個性は、ありえないのだ。
本当の個性や自分らしさとは、法にも規律にも縛られない危うさを伴う。
その危うさ・リスクというキーワードが、極端に遠ざけられた世界が、今の社会である(だからこそ、「平和ボケしている・していない」などという陳腐な論争を、いい年をした大人が本気でやれてしまっている。そういう言葉が口をついて出てくること自体が、低リスク社会で脳みそが腐ってしまっている証左なのだ)。
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ここまで書いた言葉のあとに続けて、「だから、独自性を持ちましょう。地域社会を、もっと独自に発展させましょう」とくくってしまうのは、あまりにも気楽であり、低リスクを選択しすぎている。
問題はむしろ、かつて言われていた「独自性」にもう再帰することが、物理的に不可能になった社会において、どう対処(その社会を、どう認識するか)するかなのだ。
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ここで私は、階層の細分化を勧める。
より、視点をミクロにすることを。
フラット化された、郊外の大型チェーンストア・ショッピングモールの中に、「フラットになった世界の中の細分化された差異」を見ることができるようになるしかないのではないのか、と言いたいのだ。
たとえば、今後、(いいや、すでにそうなのだが)、コンビニエンスストアという空間を「画一的」だとか「フラット」だとか「グローバリゼーションの象徴」だとかいうレベルでは分析するべきでなくなってくるはずだ。
なぜなら、もう長い間、ある種の人々にとって、コンビニエンスストアは、「彼らの独自な、個人的な空間」になっているからだ。
フラット化・グローバル化で、都市空間は、一見、どこも同じように見えるようになった。
しかし、その実、「差異が微細になっただけ」に過ぎないのだ。
かつて地域社会という名前で呼ばれていた、可視化されやすい(比較的)大げさなものが、いまは、より可視化されにくい形に変貌して、コンビニエンスストアの中に、出現している。
それは実は、家庭用家電がどんどんと小型化されていっていることと、そう変わりがないのではないか、と思えることがある。
ずっと前、とあるライターと、あるジャンルのシナリオの市場の在りようについて、議論を交わしたことがある。
彼は、「もう今は、革新的な作品は出てこない。全部同じだ。意味がない」と言った。
私は「変革の粒子が細かくなっただけだ。本来、まったく同じ作品というものはありえない。あらゆる作品に、少しづつ違いがある。極細な差異から、思わぬ意味が発見されることもある」と言った。
同じように、コンビニエンスストアや、大型ショッピングモールを見て、「味気ない」と嘆くだけでは、建設的ではないと私は思うのだ。
むしろ、もっと積極的に、コンビにあるいは画一的な大型モールが生活に入り込んだ状態で形成される家庭の状況を、分析してもいいはずだ。
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そう、もうすぐそこまで、フラットな世界を、フラットだとなじることがナンセンスな世界がやってきているのだ。