はっとり浩之オフィシャルブログ

2010年11月30日

内田樹と宮台真司

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 11:50 PM

先日、内田樹の「街場のマンガ論」が面白かったと書いたけど、その中で特に感銘を受けたのは、ほんのちょっとした部分だけど、「最近のサブカルチャー文化の需要者は、歴史文脈を語らない」というような意味合いの文章だ。

これは、サブカル需要者だけではなく、今日の人間全体について言えることだと思う。

といっても間違えないでほしいのは、僕が思うに、『サブカルも、他のあらゆる現象も、歴史的文脈なしには成り立たない』ただし、『今、人々は、それについて語る時、その文脈をぬきにして語る場合が多い』のだ。

過去の流れの複雑な絡み合いからしか、現在は成立しない。

しかし、絡み合いを『ぬき』に、今を語ってしまうことは簡単である。

そしてそれは、由々しき事態だ。

僕は子供のころから、『流れ』を調べることが好きだった。

たとえば、ロック音楽にはまったとき(中学生の時)、まっさきに、「どうして、フォークフェスティバルでボブ・ディランが、エレキをかき鳴らしたことが重要なのか」を調べた。

そして、なぜボブ・ディランの語る歌が、1960年代に衝撃的だったのかを、ミンストレルショーの伝統までさかのぼって調べたものだ。

そうしないと、歴史的文脈の意味合いは、実感できまい。

それは、政治問題においては、ことさらそうだ。

そういったことを指摘している限りにおいて、内田樹の「街場のマンガ論」は、マンガ論義を超えて優秀である。

同じような「歴史文脈の大切さ」は、先日読んだばかりだが、宮台・神保の「マル激トークオンデマンド」の最新刊(沖縄基地問題についての本)にも、ちらりと出てきた。

こちらも、面白かった。

大澤真幸(!)との対談本も出てるので、こっちも今度読もう。

内田樹は、ずっと前(数年前)に、「街場のアメリカ論」を偶然読んで、面白いなーと思った。

そのあと、あんまりにも有名になりすぎたので、ちょっと読むのが恥ずかしくなって(私もファッショナブルな人間だね。書籍を、はやっているかどうかで考えちゃってるのだ。そんな自分が恥ずかしい)敬遠してたけど、久しぶりに「街場のマンガ論」を読んで、「あ、いいじゃん!」と思ったのだ。

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