今日は、地元の防災訓練だった。
僕は写真係を担当したのだけど、大変に楽しかった。
120名ほどが参加をして、カリフォルニアからの研究生も来ていて、とても、興味深い体験だった(防災班の皆様も、消防隊員の皆様も、お疲れ様でした)。
ちょっと前の日記(「匿名性の問題」というタイトル)でも書いたけれど、地域内のつながりが、今、とても大事だと思うように、僕はなってきている。
その理想形態は、昨今口やかましくすすめられている『強制型』ではなく、たとえば小津映画のような世界観であることは、言わなくてもわかるはずだ。
古い名画「東京物語」の冒頭、笠智衆演じるお父さんに、家の軒先から、近所のおばさんが声をかける場面。
あの気軽さと、自然さ。
そこには、押し付けがましい良心や倫理観はなく、ただ自然な、「綿密な地域社会」が存在していた……。
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私が大学院に入ったころ、非常に尊敬していた門林岳史先生(私の担当教授)が、京阪電車で(京都の大学に、荒川修作のドキュメンタリーを見に行った帰りだった)、「東京ってのもつまらないよ」というようなことを言ったのを、ふと思い出した。
東京大学を卒業している門林先生は、東京に長い間いたはずだけど、明らかに大阪よりも発展しているはずの東京を、どうしてそういうふうに言うのだろう、と思ったものだ。
確か先生は、「東京にだって、つまらないものはたくさんある。なのに、東京にあるものだけがすべて最高の発展系である、というふうにとらえられがちだ。そうじゃないはずだ」というようなことを言っていたと思う(違ったらごめんなさい)。
それから、「やっぱり一極集中はいかんよ」とも言ったと思う。
それ以来、僕は、「地域の独自性って、何だろう」、とよく考えるようになった。
旅が好きで、学生時代は、ふらふらとそこらじゅうをうろついていた。
僕の目は、次第に、「地域の推す名産物や名勝」ではなく、「そこにある何気ないもの」へと向かっていった。
名産品や名勝という、一種作られた文化ではなく、そこにある空気の微細な差異や、どこにも同じように偏在するものと場所との関係を、深く考えるようになったのだった。
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これからも、どんどん積極的に、地域のイベントに、参加したいものだ。
ところで、この「地域」って言い方、どうにも、あまりいい言い方だと思えない。
なにか、もっとうまい言葉はないかねぇ。
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都会に住んでいても、田舎に住んでいても、川辺に住んでいても、山辺に住んでいても、平地に暮らしていても、地獄に暮らしていても、人間の体が在れる場所は、たった一つしかない。
今いる、「そこ」である。
だからわれわれは、常に、地域に住んでいるといえる。
口先だけの「地域性」を、政治家たちが唱えだして久しいが、「そこにいるということに実感」の重要性を、僕は最近、強く強く感じている。
「アースダイバー」という本で、学者の中沢新一が黄色い自転車で東京をフィールドワークするさまには、昔ちょっと憧れたけれど、僕も、今ある意味で、地域をフィールドワークしているといえるだろう。
自分自身の足で。