はっとり浩之オフィシャルブログ

2010年11月19日

ポストにマヨネーズ

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 12:45 AM

先日、斉藤和義のコンサートに行ってきたわけだけど、彼の曲に「ポストにマヨネーズ」ってのがある。

ポストにマヨネーズ(もちろん中身ね)を入れられてとんだ迷惑をこうむる歌(だったと思う)。

今までなんとなく聴いていたが、この歌って、かなり、社会を上手く言い表している。

だって、我々の社会は、考えてみれば、「基本的に、誰も、他人のポストにマヨネーズの中身をぶちまけたりしない」という暗黙の了解のうちに成り立っているのだ。

他人のポストにマヨネーズをぶちまけるのは、きわめて簡単な行為である。

やろうと思えば、誰でもすぐにできるし、その上、相手に与える心理的ダメージも大きい。

でも、基本的にそんなことをする人は、めったにいないし、我々は、「そんな人はめったにいない」という合意のもとに暮らしている(でないと一日中ポストを見張っていなければならなくなる)。

もしも、そんな人が基本的に存在する社会だったら、そこは、とても住みにくい社会だろう。

この寓話は、実は、今回の尖閣諸島ビデオ流出事件の寓話になりうる。

最近になって、「あれは英雄的行為だった」と誉める人々が出てきているが、残念ながら私は、その派閥に組する気持ちはない。

冷静に考えてみるといい。

どちらかといえば、ポストにマヨネーズを入れてしまったような行為だと、私は思う。

国家は、大きな会社と同じである。

部下の一人が、個人的な感情を義憤と称して、会社の機密を勝手に公開し出したら、それは会社にとって有益だろうか?

会社というものも、基本的に、「誰もそんな勝手なことはしない」という暗黙の了解の下に、運営されている。

よく考えて欲しいのだが、私はここで「善悪」を語っているのではないのである。

「行為そのものだけ」を問題にしているのである。

それがどれだけ英雄的行為であろうとも、義憤であろうとも、関係がないのである。

私個人としては、こんなことになるぐらいなら、最初からビデオを公開しておけば良かった、という考えである。

しかし、機密を勝手に公開する、という行為そのものには、批判的である。

なぜなら、今回のような「行為」が仮に英雄視されてしまえば、『今後も、同じような行為が起こりうる温床となりうるから』だ。

その『今後』は、もしかすると、もっと国益を損なう行為であるかもしれない。

そういうことがあってはならないから、規則があるのであり、規則は、基本的に、個人的な善悪感情で破ってはならないのである。

何度も繰り返すが、私は、今回の行為そのものが、善悪の悪であるといっているのではない。

そうではなく、今回の行為と世論しだいでは、次の、もっと大きな事件を引き起こしうるという危険性を示唆しているのだ。

我々の社会は、実は、「勝手に他人のポストに何かを入れてはならない」のだ。

それが、マヨネーズであろうとも、お金であろうとも。

基本的にそんなことをする人はいないから、上手く回っている。

もちろん、内部告発によって、改善される問題というのは、たくさんある。

しかし、今回の事件は、そういうのとは、ちょっと意味合いが違うと思うのだ(とりあえずそう思うだけなので、また意見は変わるかもしれないけど)。

柳田さんの発言は、論外ですね。

世の中をなめすぎ。

情けない。

仙谷さんの「自衛隊は暴力装置」という発言は、私はそこまで問題だと思わない。

暴力装置という表現は、別に蔑称ではないでしょう。

仙谷さんが、蔑称としてそういう表現をつかったなら、批判されてしかるべきですが。

私は、自衛隊に対しては、危険な仕事をしているという意味で、非常に敬意を感じています。

しかし、彼らが、「暴力を出来る力を持っていないのか?」と問われれば、「持っている」と答えます。

武器を持っているのだから、当たり前です。

私は、包丁を持っている人でも、猟銃を持っている人でも、カッターナイフを持っている人でも、ある種の「暴力行為を可能である人間」として認識しますよ。

『肉を裂くことが出来る道具を持つ人は、すべからく、予期的暴力が可能である』

当たり前のことです。

そう考えて生きていくのが、人間というか、動物の基本事項でしょう。

それは、自衛隊の方々に対して限られた認識ではない。

あらゆる生物に対して当てはまるべき認識です。

私だって、もしも包丁を持ってキッチンに立っていたら、潜在的に暴力が可能な存在だ。

急にそれで家族をきずつけるなんてこと、本当は絶対にしないけど、私自身はむしろ、「潜在的暴力可能性」に対しては、むしろ周囲の人々に、敏感でいて欲しいとすら思う。

というか、そうでないと、社会は成り立たない。

武器を持っている人間を、暴力可能な力を持つ人間ではない、と認識したら、シヴィリアンコントロールも、社会も、なにも成り立たなくなってしまうよ。

と私は思いますが、どうしてあんなに、問題視されているのでしょうね。

「装置」って言い方が悪かったのかな?

「暴力装置」なんて、ミシェル・フーコーが言いそうだけどね。

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