尖閣諸島の衝突ヴィデオが流出した。
今日、以前報道機関に勤めていた人と会ったが、「こんなことになるなら、最初から公開してりゃよかったんだよ」とのこと。
こんなことになるなら。
それはそうだ。
今回の出来事は、一言でいうなら、『手際が悪い』。
高度な外交手段として、あえてヴィデオ公開を保留するというやり方そのものは、政治技法的には『あり』だ。
手札をすぐに出してしまう必要はない。
それどころか、真実をあえて公開しないということは、その真実を、言い方は悪いが、脅しの手段として使うためにとってあるということだ。
何かあった際、「アンタ、そんなことしていいんですか? こっちはいつでも、このビデオ、公開できますぜ」と、日本政府はいつでも言うことが出来る。
もちろん、そういう『脅し』をする場合、それが脅しであるといってしまうと、意味はなくなってしまう。
表向きは、『配慮』という形を取るだろう。
当たり前のことだ。
だが、それがこのような形で外に出てしまうというのは、手元においておいた良い手札を盗まれてしまったようなものだ。
それは、『本末転倒』であり、『手際が悪い』。
失敗という奴だ。
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時折僕は、マクロモデルをミクロモデルに当てはめて考えるのが好きだ。
国家の運営は、結局は会社運営のようなものである。
そう考えてみれば、様々な、感情論が、時として、かえって運営を妨げるだけのものに過ぎないことが、よくわかる。
とにかく、クールに、中長期的な実益を考えて突き進んでいく。
それが『上手な国家運営』だ。
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今回の流出を期に、インターネットを通じた個人への締め付けも、強まっていくかもしれない。
更なる管理社会化が進むかもしれない。
今回のような事件が起こってしまうことは大問題だ。
むろんの如く、強く取り締まらねばならない。
だが、本質論の見えない馬鹿な政治家が、今回の事件を「社会にいる個人すべてをとにかく管理すれば良い」という方向に捻じ曲げてしまわないか。
それでは逆効果だ。
今回のような事件は、むしろ、そのようにして生まれた、個人の『ひずみ』が関係していると思えるからだ。
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インターネット上で、今回のビデオがどんどんコピーされていく様を考える。
ドイツの学者、ベンヤミンが「複製技術時代の芸術」を書いたり、ミメーシス(模倣)という言葉が出てきたりしたのは、先の大戦よりも、以前だ。
長い歳月を経て、今、むしろ、ベンヤミンの唱えた言葉が、さらに存在感を強くしてきているように感じる。
ヴァルター・ベンヤミンは、悲しい人で、先の大戦中、スペインで、服毒自殺をして果てた。