昨日ちょっと書いた岡田斗司夫(変換しずれーな)の「オタクは死んでいる」に共感したって話だけど、いくつかのポイントがあったんだよね。
まず一つとしては、岡田が、ある声優好きの少年に対して「そんなに好きなら、グッズ買うんじゃなくて自分でその女呼んでイベントやりゃいーじゃん」って言ったって話。
少年は、そういわれて、大いに慟哭したらしい。
「え? 素人がそんなことやっていいの?」って。
この部分、僕も大いにわかるんだ。
僕は、子供の頃からのジャズ好きで、いろんなジャズバーに顔を出していたから、幾人かのそこそこ有名なジャズメンのアドレスを知っていたんだね。
すると大学のとある友人が「そんなにジャズが好きで、連絡先を知っている人までいるんだから、君がプロデュースしてアルバムを一枚自主制作すりゃいいじゃん」と僕に言ったことがあった。
僕はそのとき、その発想に結構驚いたんだね。
僕はあくまでファンであって、そんなこと、考えたことがなかった。
「え? マジで言ってるの?」
すると友人は言った。
「そりゃそうさ。アンガージュしなきゃ。金なら、必死でバイトすりゃいいじゃないか。君なんてライターやってたんだから、結構金はいってるだろう」
なるほどなぁ、と思いつつ、僕は結局、そういうことはやらなかった。
なんだか、「やりたいけど、好きなだけであって専門的知識のない自分に、いったい何が出来るのだ?」という気持ちになってしまったのだ。
しかし、今になって思えば、僕は、挑戦しても良かったかもしれない。
そんな気持ちと経験があるから、岡田の「オタクは死んでいる」の、上記の記述に、僕は、深く共感させられた。
※
もう一つ、同じ著作の中で、なるほどなと思った部分があった。
それは、『オタク第一世代は、好きなジャンルでも嫌いなジャンルでも、一定以上の知識はないとダメだ、という意気込みで必死に勉強した。でも、第二世代以降は、自分の好きなものにしか反応しない』という部分だ。
これも、『オタク云々』の範疇を越えて、共感させられた。
というのも、まさに、大学院の飲み会で、年上のK教授から僕たち生徒が叱られた言葉とまったく同じだったからだ。
「君たちさ、そんな程度の勉強量じゃ、全然ダメだよ。俺なんてさ、大学院生のときさ、先輩や先生との会話中に何か一単語でも知らない単語が出てきたらさ、悔しくて悔しくてたまらなくて、速攻家に帰ったら調べたよ。で、原著まで全部読んで、『前から知ってました』って顔して翌日その言葉を使っていたね。それに比べて君たちさ、平気で『知らないことは知らない』って言っちゃうじゃない。それって根性ないよ」
そのとき僕は、なるほどなーと思った。
しかし結局のところ、僕は、授業で習う範疇を超えてこそこそと書籍を読み漁る程度のことはしたが、そこまでの鼻っ柱の強さを備えてはいなかったのだった……。
※
あと、岡田は、このオタク論の中で「小さな島社会、情報過疎の状況においては、人は、必死で努力するが、それが情報過密の状態になってくると、努力を放棄しやすくなる」みたいなことも述べていたと思うんだけど(たぶん)、これも、大いに同意。
僕にとってのジャズがまさにそれで、周りにジャズの話が出来る人がいなかった、ネットもなかった。
そんな時期だったからこそ、僕は、必死になって、いくら金と時間をつぎこんだっていいや、と思って、必死に調べて、バイト代を狂ったようにつぎ込んで、理解できないような好みじゃない演奏のものでも、それが少し得も理解できるようになるまで、朝から晩までスピーカーの前に座り込んで聞いていたのだ。
あの頃、もしもネットがあって、周りにジャズ好きがたくさんいたなら、僕は、孤独なレースを一人で走り続けるのではなく、とっくに、キリのいいあたりでゴールインしていただろう。
こういうのって、ある意味、ガラパゴス化の論理と似ているのかもしれない。
地方に行くと、流行のブティックなんてないのに、都心の簡単に服が手に入る子供たちよりも、意外におしゃれな少年たちが多い、というのと同じようなものだ(もちろん、それだけ、努力するからだろう)。
この議論を伸ばしていくと、グローヴァル化は、文化を本当に充実させるか否か、の話まで伸びていくような気がする。
グローバル化で、国と国の相互依存が強まって、大きな戦争がやりにくくなったとしたら、それは本当に素晴らしいことだ(それが本当なら)。
だが、一方で、文化の発展性は、閉じられたような気もする。
※
というわけで、岡田の「オタクは死んでいる」に、オタク論云々ではなく、自分自身の経験と重なる身のつまされ方を感じたんだよね。