僕がこうやって、一見政治と関係のない話ばっかりを書いていると、親しい友人の幾人かは、「どうして?」と尋ねてくる。
そのたびに驚いてしまう。
どうして?政治と美術、メディアは深く結託しているからだよ。
文化や時代のエートスは、政治と、肉と骨のように分かちがたく結びついている。
それゆえに美は、危険なツールでもあり、美を多角的に分析することで、その危険性を予備的に知ることも出来る。
現代の日本人が一番欠けてしまっている資質は、美と政治の結託の匂いを嗅ぎ取る資質だ。
それは、氾濫するメディアの渦の中で、陶酔様態になっているからだろう(かつてのシャーマンが、キノコでトランス状態になっているかのように)。
僕は、そのことを、危険だと思っている。
だから再々、「政治的意図で」音楽や美術を語るのだ。
表象が、政治的意味を持つことは、遠い昔にロラン・バルトが述べていることだし、例えば映画にしても、ジャン・リュック・ゴダールのほとんどの映画を、政治映画としてみることが可能だろう。
それを、政治的意図を汲み取ることが出来ないまま、しかし面白いと思い、流されてしまうことの危険性は、驚くほど、深い。
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それを踏まえて、読んでいただきたい。
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先日、久しぶりに聴いたディランの良さをちょこっと書いたけど、ついでにと思って、ディランの息子のバンドを聴いてみた。
ウォールフラワーズというバンドをやっている。
その音楽の方向性に僕は、唖然となった。
今の時代のの病理を感じずにいられなかった。
というのも、そのバンドの音楽が、いわゆる「キラーチューン」「アンセム」で満載だったからだ。
音楽雑誌を読んでいると、時折、キラーチューンだのアンセムだのという言葉を眼にする。
コレは要するに、「一発必中の」的な意味で、王道の、絶対にみんなが気に入る、ある種大げさなメロディーのことだ。
僕の記憶では、80年代までは、音楽雑誌はこのような音楽の評価のしなかったように思う。
「良い曲」というのは、たくさんあったけれども、それは、流れていて、「あ、本当にいい曲だな」と思ったり、ついつい口ずさんだりするもので、「あからさまじゃなかった」。
それに比べて、キラーチューンというのは、あからさまで、非常にわかりやすく、高揚的で、「皆さん一緒に歌いましょう」といわんばかりだ。
そして、そういう音楽が、90年代以降のある種のシーンで、まかり通っている。
90年代以降というのは、内的不安の時代だとも言われている。
湾岸戦争以降の「夢の終焉と倦怠感」が通底していて、音楽では、グランジという、薄暗いものが流行った。
しかし、そういうシーンにおいて、一方では、「みんなで歌えるメロディー」というものが、同時的にもてはやされた。
コレは、どういうことか。
僕にはまるで、「すねているふりをして、実は友達が欲しい子供」の心理の様に見える。
一見「僕は大人だぞ、世の中の暗さを知っているんだぞ」と強がっている。
でも実は、「友達が欲しいよぉ」と泣いている。
そんな幼稚さが、音楽一つとっても、なんとなく90年代以降の、この不思議な時代から、感じられてくる。
そこから、やはり現在の、この、世界中で盛り上がっている国益無視のナショナリズムの兆候や、息苦しいほどの殺伐感も繋がってきているのではないだろうか。
すねたふりをして連帯感を求めているように感じられるのだ。
そして、すねているから「大人として見られるだけの建前のある連帯感が欲しい」。
そんなわけで、僕は、ディランの息子のバンドに、失望せずにはいられなかった。
確かに、悪くない音楽だ。
だがそれは、ものの見事に、90年代移行的な社会の風潮に、もろに影響を受けている。
それは、ディランのような、社会の風潮を吹っ飛ばすような、マイペースとは、間逆のものだ。
僕は、マイペースこそが、いつでも、社会の風穴を開ける起爆剤であると考えている。
マイペースは、堕落ではない。
それどころか、非常に、取るのが難しいポーズだ。
一回転反の、社会批判としてのマイペースを保ち続けることのラディカルさ。
そこにこそ、社会を変える力が潜んでいるのではないのか。
僕は、そんな意味合いを感じたからこそ、ディランを、子供の頃から、聴き続けているのだ。
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最近、電車で移動中、中沢新一の「カイエ・ソヴァージュ」シリーズを読んでいる。
非常に面白い。
僕は、ある時期、レヴィ=ストロース(フランスの文化人類学者)に興味があって、チョコチョコ読んだけど、あまり理解し切れなかった。
だが今、「カイエ・ソヴァージュ」を読んで、レヴィ=ストロースの考え方が、大分と以前よりは、理解できるようになっているように感じられる。
お勧めだ。