はっとり浩之オフィシャルブログ

2010年8月27日

過ぎ去りて後、悲し。(さよなら渋谷HMV)

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 2:05 AM

今、なんとなく、デル・シャノンがハンク・ウィリアムスを歌ったレコードを聴いている。
だからタイトルは曲名のもじりだ。
意味は特にない。
でも気分は、怖いほどに共通している……ような気がする。
HMV渋谷店が閉店してしまった。
夢のような気分である。
悲しいといえば悲しいし、寂しいといえば寂しい、なんでもないといえばなんでもない。
実感がない。
モーリス・ギブが死んだときも、実感がなかった。
そしてそのときも、今と同じように、文章を書いた。
ふりかえれば、あの時私は寂しかったのだ。
とすれば、今のこの気持ちも、あとになって振り返れば、きっと、たぶん、寂しいのだろう。

だからといって、長々と考察めいたものを書く気はない。
短いメモワールにしておこう。
なんとなく。
なんとなくだ。

HMVに特別な思い入れがあるのは、中学生の頃、週一回HMVに通っていたからだ。
中学生の頃、天王寺にある塾に通っていたが、近鉄デパートにHMVがあった。
ジャズと戦前のハリウッド映画のサウンドトラックに狂っていたそのころ、塾に通った帰りにHMVに立ち寄るのが、楽しみで仕方がなかった。
当時のHMVには、ジャズ専門館があった。
今でも三ノ宮のHMVに店内にクラシック専門の部屋があるけど、あれと同じで、当時の阿倍野のHMVいも、ジャズ専門の部屋が店内にあった。
その閉鎖的な雰囲気が大好きだった。
子供の頃、押入れの中が好きだったけど、それと同じような感じだ。
あまり広くないジャズ専門の部屋には、ジャズしか流れていないし、おそらくは、ジャズを買うために足を運んだ人が集まっている。
その『狭さ』が心地よかった。
当時僕は、あまりジャズファンから言及されない(というかモダンファンから小ばかにされやすい)、戦前のスィングジャズを集めていた。
僕が、月一枚の割合で塾帰りに買っていく。
あるアーティストの、置いてあった分が全部なくなると、同じアーティストの別の作品が入荷されているということが良くあった。
インターネットがなかった時代の話である。
あるアーティストの、他の作品にどんなものがあるのかを調べる事が、困難だった時代の話である。
中学生の僕は、うれしくてたまらなかった。
店員の誰かが、僕の欲求を知っていて、まるで道案内してくれているような気分がしたのだ。
HMVへの愛着は、この体験によって培われたといって過言ではない。

そういえば、日本のロックにはほぼ興味がなかったのだが、その頃、店内イベントで、カーネーションがやってきてミニライブをして、それにはずいぶんと衝撃を受けた覚えがある。

高校生になると、中古レコード屋通いになり、HMVからは遠ざかってしまった。
大学生になると、天王寺に通う必要がなくなり、もっぱら梅田の丸ビルのタワーレコードが本拠地になった。
まだNU茶屋町にタワーレコードがなかった時代のことだ。
amazonもそんなに利用されていなかった時期で、気に入ったアーティストがいると、店員に「このアーティストの、輸入版で入荷できるやつを、すべて取り寄せてくれ」なんて、今考えると無茶な注文をしていた。
牧歌的だ。
懐かしい。
その行為の痛さもあいまって、懐かしくて涙がチョチョぎれてくる。

大学生になったとき、僕は浪人をしていたので(浪人をしているあいだは、塾に通わなかったので)、高校時代に受験失敗という結果で卒業した天王寺の塾に「受かったぜ」という報告をしたいと思ったことがあった。
恥をかいたままでたまるか、と思ったのだ。
で、わざわざ天王寺まで出向いたのだが、いざ塾の前に立つと、「そんな程度のこと、わざわざ報告するって、キモがられるだろうか」という気持ちがもくもくともたげてきた。
結局30分ほど塾の前をうろうろして、ドアを開けずに駅まで戻った。
多感な頃だったのだ。
帰りに、懐かしさに感極まって、近鉄デパートに入り、HMVを尋ねた。
ジャズコーナーは、敷居がなくなって、洋楽コーナーと地続きになってしまっていて、品揃えも、「あれ? こんなにろくなのない状態だったっけ?」と妙に失望した覚えがある。
もうあの頃にはHMVは衰退して、売れ線しか入荷できなくなっていたのだろうか。
それとも、大学生になって、かつてよりもマイナーなものに興味が向いていたのか。
よくわからん。
ただ、それ以降、たまにHMVに立ち寄ることはあっても、あまり満足できていない。
あ、でも、今でもよく聴くポール・サイモンの「サプライズ」は、たぶん、京都のHMVで買った。

HMVの、もう一つの大きな思い出は、25歳ぐらいのときに、初めて一人で東京に泊まったころに、渋谷のHMVで買い物をした思い出だ。
僕は20代前半の頃、埼玉でシナリオライターをしていたから、その頃も頻繁に東京には出向いたけど、泊まる必要はなかった。
会社を辞めて大阪に戻ってきて、一息ついて、とあるジャズのコンサートを聴くために、東京に泊りがけの旅行をした。
『遠くから出向く』という行為が、ある意味では何度も足を運んでいたはずの東京を、別の雰囲気で感じさせたのだった。
僕は、まるで初めての訪問者のように、東京を見渡した。
そして、渋谷のHMVで、(たぶん)3万円ぐらいジャズのCDを買った。
ビックス・バイダーベックのアーカイブとか買ったような気がする。
あと、ウェストコーストのレアなのとか。
「もう、めったなことでは東京に出てこないだろう」という、妙にセンチメントな気分になっていたからだ。
一回の買い物で、ポイントカードがゴールドカードになったのだけど、結局今に至るまで、そのカードは使用していない。
今後も使う予定はないような気がする。
そもそも、あのポイントカード、どこへいったんだろう。
先週、東京に行ったときに、渋谷のHMVで普通に買い物したんだけどな。
そのときはムーンライダースのアルバムを買ったような気がする。
よく覚えていない。

日本から、一つの文化のありようが消えていくのかな、というような気が、しないでもない。
今後の、他店舗の展開しだいだろうけれども。
少なくとも僕は、『CD屋に行って、なんだかわからないけれども、棚を見渡して、そこから何かを学んでいく』世代だった。
中学生の頃から、そうやって来たのだ。
本で読むのではなく、『そこに置いてあるもの、置き方』から、流れを学んできた(僕が、本を読むのが面倒な、億劫な正確なだけかもしれないけれども)。
今後、大手レコード店が消えていく、あるいは、中古レコード店が消えていくと、若者の、文化に対する受容の姿勢ってのが、確実に変わっていくだろう。
私は、インターネットで音楽の知識が得られるようになったことについては、それがどういう意味を持つのか、よくわからない。
ギリギリ、『その世代じゃなかった』おかげで、近くて遠い気分がするのだ。
日々レコード屋に足を運んで過ごして、たくさんの『足労』と『徒労』と『浪費』をした。
レコード店が消えると、それらの『足労』と『徒労』と『浪費』は、この世の中から消えるだろう。
スムーズに音楽を手に入れることが出来るなら、余った時間を、本を読むことに費やすことだって出来る、デートだって、ペッティングだって出来る。
それで、どうなっていくのか、よくわからないけれど。

でも、先日、暇つぶしに『80年代地下文化論講義』って本を読んでいたら、六本木にWAVE(よく知らないけど)が出来て、それからHMV、タワレコがで来て、って流れって、80年代以降の流れだったんだね。
僕は、82年生まれだから、まさに、その時代以降の青春期を送っていたわけだ。
そして今、僕は、僕の青春期に形成されていた、なんとなく僕らを包んでいた文化圏が、崩れ去ろうとしている(あるいは、すでに崩れている)のを、つぶさに、結構ひしひしと、感じている。
変な気分だ。
溝かくぼみにはまり込んだ、そんな気分に似ているぞ。
そして、ふと思うのだ。
僕は、一つの、僕らの親しんだ文化が消えていくのを、確かに、おしい気分として、今感じているんだけど、それが、本当に、80年代から今までの文化だったのだとしたら、結局のところ、この国において、『その文化を享受したキッズどもは、あまりたいした奴らになっていないかもしれないぞ』という気持ちが、どこかしら、頭をよぎりもするのだ。
僕は、自虐的過ぎるだろうか。
およそこの30年間、果たして、しかし我々は、いったい、なにか、素晴らしいものを築けてきたのか。
よくわからない。
よくわからないのだ、僕なんかの知識量と審美眼では。
しかしどうにも、ヘンな、居心地の悪さを、感じずにはいられない。
たぶん、あんまりこの30年間、世の中良くなってないよなー、という思いが頭の中でひずんでいるからだ……。

いいや、僕は間違っているかもしれない。
世の中は、良くなっているかもしれない。
様々な社会的設備が整備されていっているかもしれない。
ある意味では、以前よりも、発展した、安全な世の中になっているかもしれない。
敵は増えた、だが、整備はされた。
そんな気がする。
とすれば、僕が感じている、『成長のなさ』は、人々の頭の中のことかもしれないな。
年々、世間に対して、「この馬鹿!!」と思う機会が増えている。
コレは、僕が傲慢だからか。
それとも、世の知性が落ちているのか(知性の定義から検討しなくてはならない、脆弱な物言いだけど)。

別に、ダウンロード文化&ネット通販文化になったから、駄目だとかなんだとか、述べるつもりはない。
少なくとも、今の若者のほうが僕たちよりも、知識の幅は広いんじゃないのか、とも思う。
だって今、例えば、amazonで、カエターノ・ヴェローゾをクリックしたとする。
すると、「こんな人も関連あります」みたいな感じでアート・リンゼイの名前が出てきたりするだろう(たぶん)。
僕らみたいに、足でレコード店に通っていたら、カエターノはカエターノ、アート・リンゼイはアート・リンゼイだ。
ローマ字だらけのライナーノーツから、プロデューサーがアート・リンゼイであることを知り、DNAに興味を持ち、ノー・ニューヨークを購入する……までは、遠い道のりがある。
しかし、いまどきの子供なら、そこまでの道筋は、5分で示されるだろう(たぶん)。
だから、きっと、彼らは、僕よりも、もっと膨大でクールな知識を持っているはずなのだ。

そしてまた、今後、すべてのレコード店が潰れてしまうことは、ないだろう。
今でも純喫茶が残っているように、それらも、きっと残る。
それは確信がある。
人間は、何か一方だけに満足することが、出来ない生物なのだ。

と、相変わらず、何の筋道も、まとまった示唆性もない、おしゃべりを書いてしまった。
お許しいただきたい。
僕自身の体験に関しては、真摯に書いたつもりであるので、思い出の枝葉が、誰かに何らかの作用をすれば、幸いである。

一つだけ、追記を。
僕は学生時代の一時期、ほとんど学校に行かずに、中古レコード店を巡っていた。
そうすることで、何かが得られると本気で思っていた。
それが、10年ほど経て、今感じているのは『徒労』という、この文章のどこかで書いた気持ちに、集約されている。
レコード屋をただ巡っていても、何かしなければ、何か行動しなければ、何者にもなれなかった。
僕には、思考能力が足りなかったらしい。
僕が得たのは、せいぜい、『ある時期の、レコード店を巡るということの空気感』と、『脳内レコード店マップ』だけだ。
だから。
このようなしょうもない『メモワール』しか、書けない。
時は待ってはくれない。
じっくり見ているよりも、動け、と、最近思わないでもない。
というか、実際に何かをやりたいなら、じっくりと見ているな、見ている奴と、やっているやつは違うぞ、って気分がする。
でも。
じっくりと見て、無駄に時間をつぶさないと、『立ち上がらない場』も、確かに、あるのだ。
それは、『場』そのものに過ぎないんだけど。
そして、立ち上げた人々は、『浪費』に疲れ果ててしまうのだけれど。

コメントはまだありません

コメントはまだありません。

このコメント欄の RSS フィード

コメントフォームは現在閉鎖中です。

Powered by WordPress