相変わらず、一見どうでもいいことをぐだぐだと書こう。
一見どうでも良いようなことの断片に、実は重要な素材が含まれていたりするんだ。
だからみんなでレッツ・エンドレス・トーキン。
今日、町を歩いていて、自然に口をついて歌を歌ってしまっていた。
懐かしい古い歌で、ザ・ディラン・セカンドという大阪のバンドの「茶色い帽子」という歌だ。
70年代初頭の歌だったと思う。
「冷たい木箱に腰を下ろして 見えないものを見ようとするけど」
という出だしの詩が、なんともいえない特有の寂しさと実感にあふれていて、胸から消えない。
僕は、若い頃、日本の歌というのは、「荒城の月」と「城ヶ島の雨」以外は嫌い、という、相当にファナテッィクな少年だった。
J―POPが甘ったるく聴こえて仕方がなくて、友人がELTだのXだのシャ乱Qだのに夢中になっていても、「あんなの胡散臭いぜ」と思っていた。
聴くのはもっぱら戦前のジャズばかりで、ポール・ホワイトマン、フランキー・トランバウアー、ミルドレッド・ベイリー、ミルス・ブラザーズと、そういったあたりばかり聴いていた。
いわゆる、ジャズの一部がまだ、スィートと呼ばれていた時代の遺跡だ。
それゆえに、モダンジャズ・ファンからも毛嫌いされていた(一般的に、戦後のモダンジャズが好きな人は、戦前のダンス的ジャズを嫌う傾向がある。まぁ、モダンジャズにも、ヒップだったりスクウェアだったりクールだったりと、様々な概念があり、簡単にはひとくくりできないわけだが。僕はも暖気以降だと、どちらかというとヒップなものが好きだ。根っからのダンス好きなのだろう)。
そういう青春期を送っていた僕が、J-POPの表面から、いやな悪臭を感じ取ったのは仕方がないことだろう。
正直、今でもひどいけれど、あの頃も、J-POPというのは、表面がひどかった。
表面。
実は、J-POPという、一見不埒な一過性劇物にも、その薄い皮一枚向こうに、驚くほど深い泉が横たわっている(事実、90年代は、元ネタ文化の時代だったといわれるほどに、若者文化は知識量に左右されていた)のだが、中学生の頃の僕には、その、「向こう側の泉」は見えなかった。
そんな折に、初めて、日本のロックで、僕の胸を揺さぶったのが、先述のザ・ディラン・セカンドだったのだ。
ザ・ディラン・セカンドに感動したあとは、狂ったように、URC系のフォークを聞きこんでいった。
はっぴいえんど、高田渡、友部正人ETC、ETC。
それでも、ザ・ディラン・セカンドと西岡恭蔵は、僕にとっては特別だ。
なんといっても、ロックの歌の歌詞を聴いて、涙を流したことなんて、それまでになかった。
それどころか僕は、カラオケで、ザ・ディラン・セカンドのヒット曲「男らしいってわかるかい」を歌うと、今でもほろりと、涙がにじんでしまうことがある(この曲は、ボブ・ディランとザ・バンドの「アイ・シャル・ビー・リリースド」に日本詩を入れただけの曲なんだけどね)。
「男らしいってわかるかい」の中の、ピエロや臆病者についての一節の言葉に、いつそれを聞いても、歌っても、胸が突き動かされるのだ。
男らしいってことは、本当は、ピエロや臆病者のになるということでもあるんだ、と、諭すように説く、その部分に、僕は、激しく慟哭させられる。
甘んじてピエロや臆病者であることを選ぶ人々のうちに、本当に単に臆病なだけの人など、何割いるだろうか。
なじられることを選択せねばならなかった人々の理由や、痛み、達観を、どうして理解できないのだろうか。
そして、声なき声は、それがなかったこととして、処理されてしまっていいのだろうか?
Hier ist kein Warum。
それがそこに見えなくとも、それは偏在し、そこから、音のない存在の『生活音』を、うねらせている。
そのことを、心のどこかにとどめておかなくては、本当の優しい男には、なれない。
そして、この、ピエロや臆病者の、声のない叫びのことを思うときふと、僕は、吉本隆明が「言葉の本質は、沈黙にある」と書いていたことを、思い出すのだ。
大学生の頃、吉本隆明にはまり込んでかれこれ30冊ぐらい一気に読んだ時期があった。
書店においてある吉本隆明の書籍を、片っ端から読んでいった。
気がつけば、興味が薄れてしまい、今はもう、読み返すこともほとんどない。
あれだけ読んだのに、こ難しい議論のほとんどは、僕の中から滑り落ちてしまった。
薄情かもしれないが、そういうものだ。
しかし、そんな僕の中で、今でも、吉本隆明の書籍に書いてあった言葉の中で、ほとんど唯一、忘れることが出来ない、今でも、折に触れて思い出すのが、『言葉の本質は、沈黙にある』という言葉だ。
確かそれは、最近の若い詩人のことを評論した論文に書いてあったと思う。
うつろに覚えているだけなので、違っていたら申し分けないのだが、吉本隆明は、「沈黙が軽んじられすぎている」と書いてた。
沈黙ほど、重力を持つ存在は、本来ないはずなのに。
沈黙が抱える理由は、どれほど重いのか、察しが着くはずなのに、と。
これは先ほどの、ザ・ディラン・セカンドの「男らしいってわかるかい」で諭されたピエロや臆病者の、声に出してはならない叫びと同じではないだろうか。
それもまた、かみ殺された、本来は音があるはずの、しかし沈黙になってしまったものなのだ。
それは、存在した(している)。
だが、声にして発することを禁じられているために、存在していない(できない)。
それを、察することが出来なければならない。
現代社会が抱える最大の病理の一つは、想像力の欠如だ。
見えないこと、存在できない理由を、察する力が、薄れているのだ。
PS と書きながら、夜の寂しさを紛らわせるための読書として、軽い読み物を読んでいた。ユング派の心理学者の河合隼雄の「ケルトを巡る旅」だ。偶然ここにも、日本人の「察し」という文化についての、記述があった。そこでは、それがまだ『ある』ものとして、描かれていたけれど。