はっとり浩之オフィシャルブログ

2013年7月9日

あなたはなぜ、そうまでして、謎ときに夢中になるのだ

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 12:44 AM

守口市のHPに、先日の一般質問の動画をアップしていただいてるので、また見たってくださいね。
6月28日の分でおま。

先日の土日で、映画「カレ・ブラン」と「二流小説家」を見てきた。

カレ・ブランは、七芸でやってて、まぁ、よくこなれた映画やなぁって印象。
いったん、ストーリーをきっちりと構築して、それをメタメタに溶解させて再構築させてるのがよくわかる。
別にびっくりするような作品じゃないけど、まぁ、高品質ですね。
ただ、もうちょっとミステリー要素もあってよかった。

二流小説家は、なぜか知らんが、海外のミステリーヒット小説を日本を舞台に置き換えて撮った日本映画。
割とスリリングで退屈しなかった。
主人公の二流小説家も、かつての俺自身というか、俺がもしも、仕事を辞めずに3流ライターを続けていたら、こんな風な情けない男になっていたのかな、と、共感も得られた。
何とか大小説家になりたくて、無駄に買い込んだハードカバーの本だらけの自室もかつての俺そっくりだし、会社の方針で書きたくもない作品を次から次へ著書かなくちゃならないのも同じ。
でも、それが仕事なんだよね。
わかるよぉ。

ただし、原作がもともと海外のものだからか、見ていて違和感のあるシーンが多い。
例えば、ふとしたきっかけで、ある殺人事件の犯人捜しに主人公はのめりこんでいくんだけど、途中で狙撃されるんだよね。
ふつう、狙撃されたら、怖くて身を引くでしょ。
俺なら、絶対に身を引く。
でも、ただの気の弱い二流小説家であるずの主人公は、あまり気にしている様子もなく、捜査を続ける。
……そんな奴、いねぇ。
だいたい、捜査にのめりこんでる間、原稿はどうしてるんだ。
日々の生活が破綻するぞ。
この辺が、疑問でならない。
だいたい、ただの2流小説家であるはずの主人公が、おもむろに、警官も出し抜くような事件の真相に気が付く点も、解せない。
そんなに機転がきくなら、最初の方の、情けない男風の描写はいったいなんなんだ。
たとえば、わかりやすく最近のヒット作を例に出すなら、「氷菓」の折木君には、俺は疑問を感じないんだよ。
彼は、「やる気がない」だけなので、もしかしたら天才であっても、おかしくはない。
一方で、「2流小説家」の主人公は、いい年なのに、目の出ない小説家なのだ。
それは、マインドの問題ではなく、才能そのものの問題なので、彼が天才的に機転がきく人間に豹変する理由が見当たらない。
そんなに頭がよくて、行動力もあって、洞察力・観察力に優れているのなら、とっくに何らかの方法で成功しているはずなのだ。
その辺(急に事件の真相が見えだす理由)を、もっとじっくりと描かないと、不自然になる。
要するに、ミステリーの真相は、読者を出し抜くようなものでなくてはならない。
だが、読者をも出し抜くような真相を、凡人の主人公がおもむろに看破して見せるは、不自然なのだ。

「必要性がないのに、危険を冒してまで事件にのめりこむ主人公」「凡人であるはずなのに、事件の解決時におもむろに天才に豹変する主人公」という、この映画の抱える二つの問題点は、「探偵・警察でない主人公のミステリー」の抱える問題そのものだ。
自身が脅迫されている状態でなければ、仕事でもないのに、身の危険を冒してまで、事件の真相解決にのめりこむはずがない。
普段冴えないことを実証してきた男が、おもむろに事件の真相を言い当てるはずがない。
この問題は、多くの、素人探偵が主人公である映画が抱え込んでいる。
これらの問題を、見事乗り越えている映画を、何故その作品は違和感なく成り立っているのか、一度統計立ててみたいものである。

(余談。確か、蓮見重彦が、「羊を巡る冒険」「裏声で、歌え君が代」「吉里吉里人」を挙げて、「不自然で無内容な素人探偵が主人公の小説」だと批判していたような気がするが、この3作は、ミステリーというよりは精神探索史的な側面が強いからか、最初から幻想的ファンタジーと思って読むからだろうか、作品の良し悪しは置いておいても、あんまり不自然さは感じないんだよなぁ。)

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