はっとり浩之オフィシャルブログ

2013年7月5日

青森・十和田・弘前・箱入り息子の恋

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 12:36 AM

一般質問が終わったと思ったら、速攻出張で青森に飛んでいました。
中心市街地活性化のテーマで、弘前市のスマートシティ構想、十和田市のアートシティ構想、青森市のコンパクトシティ構想について各市でいろいろと聞いてきた。

弘前は、城下町だけあって、高槻に似た感じの結構きれいな品のある町で、緑も多くて好感が持てた。
スマートシティ構想自体は、理想論が勝ちすぎている感じか。
中高生に、エネルギーの専門的な勉強を、市が主導で、学校の授業の代返で学ばせるというのは面白い。
大学のゼミを先どるような雰囲気で、子供たちにとって、専門の道に興味を持つ良い道調べになるだろう。

十和田市は、巨大なアーケードが印象的だが、割とゴーストタウン化しているようにも見える。
十和田市現代美術館という相当にセンスのいい美術館を擁しているのが売りだが、これは、市の職員にアートのセンスがある人がいたわけではなくて、委託した業者のセンスが素晴らしかったということらしい。
美術館は実際に見てきたが、かつて美学の授業をがっつりととっていた僕にとっては、かなり満足がいく内容だ。
映像文化専修系の学生には、たまらないナイスチョイス。
なかでも、ベルギーの作家、ハンス・オプ・デ・ビークの作品『ロケーション5』は、とてつもなく素晴らしい。
この作品ひとつ見るためだけに自費で十和田に行ってもいいほどの作品だ。
どういう作品化というと、いわゆる空間そのものを使った美術品で、薄暗い夜のダイナーを湾曲させて再現したような作品だ。
狭い部屋の中に、いかにも郊外にありそうなカフェレストランが構築されている。
窓からは、橙色の街灯の光に照らされたか細い国道が見える。
店のBGMとしていかにも懐かしいややミューザック化されたロック音楽が流れている…。
これは確かに、郊外化の進んだ現代の人間の、記憶の内装に隠されている原風景だ。
だが、それは、現実の後継と比べると、明らかに激しく歪んでいる。
記憶が塗り替えられているような感覚にとらわれる。
いったいなぜか?
ダイナーの中が暗すぎること、窓から見える街燈の色彩が、今ではありえない赤茶けた色であること、天井のスピーカーが奏でるロック音楽が、巧妙にリミックスされた、乾いた遠い音色であること…(現実のミューザックは、もっとチープである)。
そう、これは、我々の記憶の奥底で、沈殿してしまい、喘ぎ喘ぎ死にかけている、「古い時間」なのだ。
消え去った時間を、再構築した、別の町なのだ。
我々は、この美術品の中で、沈殿した記憶を、息絶え絶えの、変色した懐かしい光景を、憧憬と悪夢の中間地点として、見つめることができるのだ。

青森は、いかにもな海辺の町だ。
神戸を、そっけなくさせたようでもある。
青森が推進しているコンパクトシティとは、要するに囲い込み政策のことで、中心市街地のドーナツ化を防ぐために、郊外(ミッド・シティーおよびアウター・シティー)に巨大な商業施設の建設を許さないというもの。
日常品程度なら、郊外で買い込んでもいい(スーパー程度は許されている)が、本格体に遊びたければ、都心(インナー・シティー)に出て来いというわけだ。
まぁ、京都が建物の高さを制限して、外観を保っているのと、精神論的には近いだろう。
しかし。
青森は、地形的に、山に囲まれて、他市から隔てられている。
海と山という天然の城壁がある。
大阪は?
守口がもしも、守口駅前だけを過剰に整えて、大阪市に負けない都会にして(他の地域の開発は制限する)も、それならばたとえば守口駅からは多い地域…例えば、大久保の住民は寝屋川に、寺方の住民は鶴見区に買い物に出るだけではないだろうか?
大阪には、地形的な壁は他市との間に、あまりありえないのだから。

どうでもいいけど、インナー・シティと聞くと、マーヴィン・ゲイの名曲「インナー・シティ・ブルース」を思い出すよね。

青森から帰ってきたら、なんか精神的に疲れていて、その足で夜に、心のホームタウンである高槻に行ってきた。
あぁ、帰ってきたなぁって感じ。
バスで祥風館行って、あとは西武デパートの夜10時までやってる食堂街でぼんやりしてた。
癒される。

映画「箱入り息子の恋」を見てきた。
まぁ、最近、星野源にけっこうはまってるってのもあるけど、エンディングで細野晴臣の新曲「熱の中」が流れるのを聴きたかったのである。
映画館の音響で細野だぜ?
こりゃ聴いておかなきゃ損だろう。
実際、なかなかいい曲だった。
途中で入るギターの音が素晴らしい。
これは、高田漣が弾いているのだろうか。
いやぁ、しかし、この新曲、親父臭くないところがいい。
1960年代から活動していて、年とって変なブルース親父にならずに、このチルアウトされたフィーリングを醸し出しているのはすごい。

しかし、映画館で細野の歌声を聴くなんて、個人的には、2003年ごろのアメリカ映画「ロスト・イン・トランスレーション」で「風をあつめて」を聴いて以来で、大感動なのだが、観客の結構な数が、エンドクレジットに入ったら席を立ってしまった。
ん?
細野の歌はどうでもいいのだろうか。
星野源目当ての人が多いのかな?
まぁ、星野源か高田漣か細野晴臣に興味がある人以外は、わざわざ見に行く映画ではまずないと思うのだが、いったいどういう客層だったのだろう。

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