はっとり浩之オフィシャルブログ

2013年3月20日

羊、追いかけたらええやん

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 12:18 AM

地下鉄に乗ってたら、熱心に村上春樹の「羊をめぐる冒険」を読んでいる初老の男を見かけた。
50代後半ぐらいだろうか? 仕立てのよさそうなスーツに身を包んでいて、セルフレームの眼鏡の奥に知的な目を持っていた。
こういう人が、今更「羊をめぐる冒険」を読みふけって、いったいどういう感想を抱くんだろうなぁ?と僕は思った。
僕は子供のころに村上春樹が結構好きで、当時出ていた本をほとんどすべて読んでしまった。
だから、僕の中で、春樹の小説の主人公たちは、みんな、「自分よりもずっと年上のかっこいい大人の人たち」なのだ。
今、僕は、「羊をめぐる冒険」の主人公とたぶん変わらないような年齢になっている(それとももしかしたら、「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公ぐらいの年齢!?)けれど、それでも僕の中では、以前彼らは、「ずっと年上のかっこいい大人たち」だ。
物語の時間は氷漬けにされているので、僕が子供のころに読んだ印象のまま、ずっと変わらない。
それどころか、僕は、あんなにもかっこいい大人じゃない。
何ともみじめな、少年時代の延長線上に位置する大人なので、「30歳ぐらいのかっこいい大人」は、ずっと幻のまま、この世界に存在しない存在だ。
石原慎太郎的に表現すれば、そんな大人は、非実在中年なわけだ。

前述したように、僕は、子供のころに春樹の小説をたくさん読んだ。
そのころ、僕には、大人の生活なんて想像もつかなかった。
なんといっても、僕には父親は不在のようなものだった(僕が幼稚園のころに仕事で家を出て行って以来、一年間に一回程帰ってくるだけだった。そんな状況が10年以上続いていた)。
また、僕は、同時代的な小説を子供のころにあまり読まなかった。
僕は中学生のころ、開高健の小説に夢中になっていたけど、ベトナムに行ったり、戦後すぐの闇市で生き抜いたり、高度成長期の直前に広告会社で働いていたりする人生は、中学生の僕にはおとぎ話の一種だった。
それに比べると春樹の小説は、ずっと同時代的に感じられた。
彼の小説は、60年代後半の空気の残滓を残してはいたけれど、それは、肺に吸い込んだ煙草の煙みたいに目だたなかった。
ただの前提のようなものに過ぎなかった。
だからこそ僕は、村上春樹の小説を真剣に読んでいた少年のころ、「大人になると、こんなに素敵なことがあるんだ」と漠然と考えてすらいたのだ。
今考えると、笑えてくるような、馬鹿な感覚だ。
半分寓話みたいな物語を読んで、そんなところにリアリティを感じていただなんて。
でも、本当に、そんな風に考えていたのだ。
子供のころの僕にとって、大人の姿とは、どこで何をしているのかすらよくわからない父親ではなくて、村上春樹の小説の主人公たちだったのだ。
20代半ば~30代前半ぐらいの人間は、みんな、彼の小説の主人公たちのように、タフで、ワイルドで、皮肉屋で、気障で、多分に感傷的かつ内向的なものなのだと思っていたのだ。

少し大人になってくると、そんなわけはないのだとわかってきたことは事実だ。
でも、きっと心の奥には、そんな大人の姿が焼き付いていたのだろう。
僕は、タフで、ワイルドで、皮肉屋で、気障で、多分に感傷的かつ内向的な大人がいないことにも、自分がそんな大人になれそうにないことにも、心の奥底で苛立ちを感じて青年期を過ごしていた。
生きることは、タフになることだが、生きていて、ワイルドになっていくことも感傷的で内向的になっていくこともできない。
それらは生きることと相反している。
生きることは、たくさんの感傷的な部分をわざと鈍らせて、ワイルドな青年時代の殻を脱ぎ捨てて社会のルールに自分をなじませていく行為だからだ。
多分に感傷的で内向的なサラリーマンがいたら、きっと素敵だろうけれど、この社会ではきっと生き残れないよ。
この社会では、みんな、自分を矮小に見せる努力をして、賢く立ち回らなくちゃならなくて、ほんのちょっとしたこだわりに少年の残り香をにじませる努力をするのが精いっぱいだ。
春樹の小説の主人公は、ずいぶんと自由に生きている。
職業は、ライター・翻訳者・広告業・弁護士志望の無職・バーの経営者などなどで、僕は子供のころ、「こういう特殊な仕事をしていると、時間がたくさんあるんだろうか」と思っていたが、そんなわけがない。
少なくとも、上記の職業のうち、僕は大人になってから、ライターを実際にやっていたが、暇なんて全然なかった。
休みの日も働いていたし、寝袋をもって会社に泊まり込むことだってよくあった。
だから、春樹の小説の主人公たちは、相当にフィクション的で、現実の存在から相当に逸脱しているけれど、子供のころの僕には、そんなことはわからなかった。

だからこそ、僕は思うのだ。
さっき目の前にいた、地下鉄で出会った、初老の男。
いかにも、生真面目そうで、仕事のできそうな、会社員の男。
あなたは、そんな年齢になってから、「羊をめぐる冒険」を読んで、いったい何をしようっていうんだい?
あんたは、何を感じているんだい?
あんたはきっと、僕じゃない。
僕とは、全然違う。
僕は、子供のころに、その小悦を読んじゃったから、いつまでも、その小説の主人公は、僕よりも素敵な大人なんだ。
あんたは今、その小説の主人公の年齢の倍ぐらいだろう。
あんたが、何を感じているのか、僕は知りたくてたまらないよ。
僕には感じられない体験を、教えてほしいんだ。
僕に教えてくれ。

追記:僕は、「海辺のカフカ」以降の村上春樹をあまり読んでいない。読んだ小説もあるけれど、子供のころに読んだ時のように、体にしみこんでは来なかった。理由がわからなかったんだけど、この文章を書いていて、一つ発見をした。「海辺のカフカ」の主人公は、15歳。そう、この作品において、僕の(当時の)年齢が、主人公の年齢を超えたのだ。それで、一気に、自分の中の何かが変化したのだ。あの小説が発表されたことで、僕にとって、春樹の小説は、あこがれる大人たちの冒険の書ではなくなったのだ。きっとそうじゃないかな、と思う。だから、やっぱり僕にとって、春樹の小説は、永遠の大人たちの姿なんだ。たとえ、この世界ではありえなくっても。

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