新藤兼人が亡くなったらしいですね。
思い入れのあった映画監督なので、非常に悲しいです。
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ところで、昔、「陸に上がった軍艦」をシネヌーヴォ(西九条)で見て、「一枚のハガキ」をシネリーブル(梅田茶屋町)で見た記憶があるんですよね。
で、「花は散れども」を七藝(十三)で見た記憶があるんです。
僕の行動範囲的に、十三の第七藝術劇場ってあんまりいかないんですよ。
どうして七藝まで見にったんだろう。
梅田でやってなかったのかなぁ?
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新藤映画って古いのはDVDで結構見たんですけど、亡くなったのだから、シネヌーヴォあたりで新藤週間とかやらないかな?
昔やってたんだけど、忙しくて見に行けなかったんだよね(いまも忙しいけど)。
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実は、学生のころ、「新藤映画とタルコフスキー映画における『偶発性』の一致」っていうテーマで論文を書きたいと先生に言ったことがあるんだよね。
タルコフスキーってのは、アンドレイ・タルコフスキーっていうロシアの名監督なんだけどさぁ。
で、先生には「だめだめ、そんなテーマ。裏付けもとぼしいし、ただの雰囲気というか、推測とこじつけだけの論文になるよ。そういうのは学問じゃないぜ!」とびしっと叱られたんだよ。
いまなら、その通りだよなぁ、と思うんだよね。
だってその時の俺は、タルコフスキーはほぼ全作品見てたけど、新藤作品はせいぜい10本ぐらいしか見ていなかったんだ。
しかも、「午後の遺言状」一作だけを抜き出してタルコフスキーの「ストーカー」「ノスタルジア」「鏡」などと比べようとしていたんだよね。
そんなやり方、論外だよね。
自分に都合のいいこじつけだよ。
小説を書くんならそういう感覚でもいいだろうけど、学問ってのは事実への言及であるべきだからね。
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その注意を受けてから、俺は「恣意性」ってのを意識するようになったんだよ。
「恣意性」ってのは、まぁ、簡単に説明すれば、「自分の都合のいいように選択する」みたいな意味だ。
客観的に物事を見るのって難しいから、なかなか気が付かないんだけど、よくよく観察すると、世の中にあふれかえっている情報って、「恣意性」に満ちているんだよね。
提供者も摂取者も、自分に都合のいい情報を差配している。
そういうのって人間の無意識だと思うんだ(もちろん意識的なものもあるだろうけど)。
たまにはそれでもいいけれど、できるだけ恣意性は排したほうが良いな。
そう思うようになったんだ。
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こういう議論をもっとちゃんとやると、情報学というか、インテリジェンスについての話になるんだけど、まぁ、今日は長くなるからいいや(インテリジェンスって、いわゆる俗語のインテリって意味じゃなくて、情報学で使う言葉なんすよ)。
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まぁ、それはおいておいて、新藤映画って、なぜか心に深くしみつくんだよね。
やっぱり、よくできた映画に見せておいて、いろいろな「違和感」がところどころにくさびみたいに打ち込まれているからかもしれないな。
だって、半分SFだよ、新藤映画って(笑)。
タルコフスキーもゴダール(この人も名監督)もそうだけどさぁ……って、おっと、こういうのが、恣意的な判断なんだろうね。
へへへへ。