守口市議会議員、服部浩之です。
今回は国旗の掲揚の条例化について。
私は、かなり保守的な人間であり、愛国者であります。
学生時代から靖国神社に参拝していますし、江藤淳(保守の有名論客)のファンです。
私は、新自由主義的「小さな政府、小さな社会」に反対をし、「小さな政府、大きな社会」を常に唱えています。
大きな社会とは、共同体の絆を深める包摂制のある社会のことで、ひいては伝統を守り地域共同体を守ることでもあります。
先日の代表質問で私が、日本語教育の重要性を説いたことは、皆様の記憶に新しいでしょう。
つまり、繰り返しますが、私は、共同体の伝統を重んじるパトリであります。
そのことを踏まえたうえで議論します。
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・条例化に賛成・反対から右派・左派を決めるのはナンセンス。三島由紀夫も条例化には反対していた。
まず第一に、国旗の掲揚の条例化に賛成・反対の立場のみで右派・左派を区別することはナンセンスです。
これは、例えば一般的には右派だととらえられている三島由紀夫や鈴木邦夫や宮台真司や小林節といった人々が条例化には疑問を呈していることからでも明らかです。
この問題を、賛成だから右派、反対だから左派であるというように単純な図式化してしまうと、大きな失敗を引き起こします。
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・国旗はあげるべきだ! でも条例化では愛国心が育たない!
と言いますのも、「条例化に反対である」ということは、「国旗の掲揚に反対である」ということではないからです。
「条例化」というのは「法によって義務付けること」です。
私は、常々、「国旗を敬い、日本を愛する心を持つべきだ」と主張しています。
しかし、条例で決めてしまうというのは、むしろ愛国心をないがしろにされてしまうと感じます。
三島由紀夫が述べているように、条例による「お上からのお達し」のような形では、愛国心が育たないからです。
それはなぜか、説明します。
キーワードは、「内発性」です。
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・「内発的な愛国心」こそが本当の愛国心!
「内発性」とは、「人から言われなくても、自分でやろうとする心」です。
アリストテレスが言うところの「徳(ヴァーチュ)」がこれに当たります。
アリストテレスは、人間とは、共同体の中で生きていく生き物であると主張しました。
共同体の絆を強めていくためには、一人一人の内面に徳があふれていなくてはならない。
そのためには、義務に従うのではなく、内発的に愛国的にならなければならないと論じたのです。
有名なたとえ話があります。
『市民が「殺人は良くないことだ」と思っているから殺人率が低い国』と、『罰則や規則で殺人が禁じられているから殺人率が低い国』ではどちらが国家として優れているのか。
アリストテレスが言う優れた国家とは、もちろん前者なわけです。
私は、この意見に全面的に賛成します。
それゆえに、私たちは、「自ら湧き上がる愛国心」をはぐくまなくてはならないのです。
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・義務化では、優等生病を増やすだけだ!
では、条例で義務化すればどうなってしまうのか。
これを読み解くキーワードは、社会学者の竹内好や鶴見俊介が言うところの「一番病」「優等生病」です。
義務に従って国旗を揚げるとすれば、それは単になる形だけのものになってしまう。
「一番いい子になってほめられたい」がために国旗を揚げるだけの国民だらけになってしまう恐れがあるのです。
これでは、内発的な愛国心が育ちません。
先生に言われたから言うことをきいてるだけの良い子が増えるだけです。
私は、そうではなく、たとえ世間になんと言われようとも、国を愛するから国旗を揚げるのだ、という子供に育ってほしいと思います。
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・教育改革で、内発的な愛国心を鍛えるべし!
ですので、私は、愛国心を鍛えるためには、教育改革しかありえないと思っています。
条例で決めてしまうのは、一番楽なやりかたです。
そうではなく、教育の現場を変えていくことが大事なのです。
近現代史をきっちりと教える。
国家の成り立ち、国旗・国歌をちゃんと教える。
伝統と文化を教え、地域共同体の大切さを教える。
そういった教育の根本改革によって、内発的な愛国心を鍛え上げていかなければならない。
条例を制定するよりも、教育の改革によって、愛国心そのものをはぐくむことこそが大切ではないでしょうか。
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・内発的・無償の行為こそがミメーシスを引き起こす!
ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンは感染や模倣という意味のミメーシスという言葉を定義しました。
いまから80年ぐらい昔のことです。
私は、この、ミメーシスこそが、いまの時代に不可欠ではないかと思っています。
他人に言われたからではなく、内発的に行う行為が、他者に影響を与える。
愛国心も、そのようにして、どんどんとミメーシスを起こしていければいいと思います。
恥ずかしがらずに、素直に、「俺は愛国心があるから、国のためにこういうことをしようと思う」と、ありのままの気持ちを言ってみるだけでいいのです。
そうすれば、そこに感銘を受けた人が広がっていくかもしれない。
本来愛国心とはそのようにして広がっていくものです。
条例で楽に制定してしまったら、ミメーシスが引き起こされる感度が下がります。
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・入れ替え可能なものには本当の愛は存在しない
最後に、ほんの少しだけ哲学しておきたいと思います。
かつて、ロラン・バルトというフランスの哲学者は、「物事には表象がある。表象の奥に、ストゥディウムとプンクトゥムがある」というようなことを述べました。
これを簡単に説明すると、「物事には、表面と、中身がある」ということです。
表面というのは、入れ替え可能なものです。
一方、中身は、入れ替えることができません。
バルトは、中身の中でもことさらに深層意識的なもの、プンクトゥムが大事であると述べました。
かつて日本は、戦前に鬼畜米英と言い続けていましたが、戦争が終わって数年たつと、マッカーサーに大統領になってほしいとまで言い出す人が続出しました。
もちろん、そんな人ばかりではありませんが、そのように、変化の激しい人々がいた。
こういう人々の愛国心とは所詮は入れ替え可能な表面だけだったのではないのか、と、評論家の大塚英志は批判しています。
私も同感です。
戦時中は日本政府に、戦後はGHQに従うだけでは、入れ替え可能な忠誠心ということになってしまいます。
それでは、表象に従っているだけということになる。
そうではなく、内面を鍛えて、揺るがない愛国心を心の中に持たねばなりません。
実は、愛国心は英語に直すと、二つの言葉に分かれます。
社会に対する愛(パトリティシズム)と、政府に対する忠誠(ローヤリティ)です。
政府というのは、入れ替え可能です。
しかし、美しい国土、国民としての感性、歴史は、入れ替えることができません。
そういう、入れ替えできないものをこそ愛するべきだと私は思っています。
だから私は、愛郷主義者であり、愛国者でありたい。
この文章で、初めに、自分をパトリであると定義したのも、そのためです。
私は、皆さんにも、入れ替え不可能な、かけがえのない国土を愛する人間になってほしいと思っています。
そういう人間になるには、絶対に、「内発的な愛国心」が必要不可欠であると確信しています。
※
・愛国心を育てることのできる、深みのある教育改革へ!
ここまで読んでいただければ、私が、愛国心を育てるためには、条例化は障壁になると主張している意味が分かっていただけると思いまづ。
私は、もっと根本の、現場からの改革による、愛国心をはぐくみたいのです。
そのためにまずやることは、条例化ではなく、教育改革だと主張しているのです。
今後、教育問題にコミットメントしていきたいと思っています。
内発性を持った愛国心をはぐくむ教育に向けて、いろいろと提言していく予定です。
はじめまして。
この論理、わかりやすいですね。
条例でしばってしまうと内面が育たない。
条例を決めたとしても、教育改革をしないようでは政治家は楽をしてるだけ。
愛国心教育をちゃんとやっていくべき。
そういう意味ですよね?
わかりやすいし、正しいと思いますよ。
とにかく条例化しろ、と言ってるだけの政治家よりも、深いところまで考えてるように感じました。
コメント by 久保田千寿 — 2012年6月2日 @ 9:01 PM
ありがとうございます!
世の中、単純な二項対立の構図にあてはめてものを見てしまうことが一番危険だと常々思っています。
人間の感情や世の中の成り立ちは、非常に複雑であるはずなのです。
いま、テレビなどのメディアがあまりにも単純な図式を提示しすぎているので、せめて心ある人々は、「世の中は単純に見ようとすると痛い目にあうんだ」ということを主張しなければならないと思っています。
コメント by hattori — 2012年6月6日 @ 12:10 AM