今村仁司「現代思想を読む事典」、宮台真司「そもそも世界はデタラメである」、吉本隆明「日本語のゆくえ」を読む。
3冊とも、学生時代にすでに読んでいる書籍で、読み直しなのでCSNYの「デジャヴ」を聴きながら、さらっと読み終えられた。
政治にかかわっている今だからこそ、「あぁ、これはこのことを批判していたのか」というように合点がいく(再発見)部分が多々ある。
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今村仁司「現代思想を読む事典」の「全体主義的言説」の箇所が面白い。
全体主義を形作るのは、論理ではない。
むしろ、意味性を欠いた身体性によって形作られる。
深いメッセージ性を含んだトピカルソングを歌う歌手よりも、観客をノせるアイドルに集まるファンたちの方が統制が取れているという様子をなんとなく想像すれば雰囲気はつかみやすいと思うが、全体主義を形成する言説(大勢を、統制のとれた形で動員させる言説)というものは、終始一貫してはいない。
終始一貫していないが、身体性(勢いのようなものだと解釈してよい)を強く持っているのである。
底の抜けたポストモダン(後期近代)においては、終始一貫した意味性は、単純な勧善懲悪との類似性を指摘され、忌避される可能性がある。
一方で、終始一貫した意味性を欠いた、身体性に基づく物語は、自明である部分がないために、かえってクールに見える。
しかし、それを無批判に受け入れてしまうということは、好ましくはない。
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宮台真司「そもそも世界はデタラメである」の中の、「オールウェイズ3丁目の夕陽」批判も面白い。
まぁこの映画は当時からいろいろと悪い噂ばかり耳にした映画だったが、宮台の批判は的を得ていると思う。
まず第一に、彼は、この1950年代を描いた映画を、「1950年代を実体験している人間にとっては、うさん臭い嘘ばかりの世界」であると断ずる。
そして、この映画を好意を持って受け入れる人間は「1950年代を実体験していないので、いくらでも美化されることに違和感を感じない人々」である傾向が強いとする。
そして、こういった傾向を、「近いものよりも遠いものを好む」という傾向であると定義する。
ようするに、「実態を知っている相手よりも、実態をよく知らない相手の方が素敵に見える」傾向であるというのだ。
なるほど、近頃の、マニフェスト選挙に代表される「候補者本人の人となりよりも、どの政党(組織)に属しているかで判断する」という傾向も、この傾向の一つの展開であるかもしれない。
また、宮台は、「死んだ恋人と、彼の死後にできた新しい恋人ならば、死んだ恋人の方が美化されやすい」とし、そのうえで、「しかし、それは彼が死んでいるからであって、もしも生きていたら、現在の生きている彼と同様に、神秘性は薄れていっただろう」とする。
これも、上記の「近い人間に対する遠い人間の勝利」の一つのヴァリエーションである。
そして、宮台は、そのような傾向を「ウブに過ぎる」と警告する。
遠い他者に勝手に期待したり、遠い他者を勝手に批判することは、あまりにも自身の観察努力を怠っている行為であるし、あまりにも、人生経験に乏しい行為であるからだろう。