はっとり浩之オフィシャルブログ

2012年5月10日

メディアと情報と倫理

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 1:37 AM

守口市議会議員の服部浩之ですよ。

今日は情報学部出身の友人と会ってメディアや情報倫理について話し合った。

この友人は、政治に関係する職には就いていないが、学生時代から政治に対する関心が強く、今でもいろいろとチェックしている。

学生時代、僕に社会学者の宮台真司を教えたのも彼だし、評論家の東浩紀を教えたのも彼だ。

僕が昔から好きだったピンクフロイド以外のプログレッシヴロック(ことさらにPFMやバンコ、アレアやオザンナといったイタリアのプログレ)を聴くきっかけになったのも彼だった。

彼が今日語ってくれたことのうち、感心した部分を要約しておく。

・世の中には政治に関心のある人と関心のない人がいる

・政治は、失敗すれば有権者にしっぺ返しが来るので、有権者は、自分の身を守るためにも、政治には注意を払うことが好ましい

・しかし、政治に関心のある人の中にも「ちゃんと自分で分析して知識を得ている人」と「他人から聞いた話をうのみにしているだけの人」がいる

・後者の「政治に関心はあるのに、誤った情報をうのみにしている人」は、ある意味では政治に関心がない人以上に問題がある

・テレビや新聞の報道は、偏っていて、あてにならない

・そのうえ、テレビや新聞は視聴率を重要視するため、地味(だが重要)な政策は記事にならない。結果、分析に乏しいゴシップレベルの記事が多くなる。

・また、紙面や時間の制限から、テレビや新聞は、「法律や制度や過程」といった、政治を議論する上での基礎知識をすら伝えられない

・ということは、結局は、有権者は、テレビや新聞や人のうわさ話を鵜呑みにする前に、法律や議会の制度、議会制民主主義の成立過程といった、議論の土台をまずしっかりと勉強しなくてはならない

・しかし、みんな仕事などがあり忙しいので、そんなことに努力を払うことができず、結局は、根拠に乏しい話題をゴシップ的に語ったり、分析を怠って感情的に語ったり、政治家を見た目やイメージで判断することになる

・あるいは、本当は政策そのものには関心がないけれど、暇つぶしやストレス解消のために、政治に対して文句を言ってすかっとしたいという人も存在する

・こういう人はさらにやっかいで、単にストレスを解消したいだけなので、詳細な分析や、政策が中長期的にどういう効果を及ぼすかにも興味がない(興味があるフリはする)

・テレビや新聞が、そういう人を支持者として取り入れて視聴率を稼ぐために、なおさら根拠に乏しいゴシップ的な報道が増えていき、正当な政策分析の議論が減ってしまう

・一方で、インターネットは、基本的に無料で閲覧できるものだし、長さの制限がないので、読み手に媚びる必要はなくなる

・それゆえに、新聞やテレビよりも、より詳細な分析が書かれている可能性がある

・ただし、インターネットは「誰でも発信者になれる」メディアなので、まったくのウソが書かれている可能性も高い

・要するに、本当は全く政策に対する知識がない人でも、好き勝手に批評を書いて公開することができてしまう

・ということは、結局、インターネットを閲覧する場合にも、その記事が正しいのかどうかを判断する審美眼が有権者に必要になる

・審美眼はどうやって得られるのかといえば、それはやはり、法律や議会の制度、議会制民主主義の成立過程といった基礎知識をしっかりと勉強しているかどうかにかかってくる

・また、上記のように、インターネットは匿名で誰でも発信できるものなので、いわゆる「工作員」が制作したホームページが存在することも、大きな問題だ

・「工作員」とは、「一般人を装いながら、本当は、特定の政治団体に頼まれて、その政治団体にとって好意的な記事を発信している人」のことである

・普段、あまりインターネットに接しない高齢者や、政治に対する本格的な知識に乏しい人ほど、「工作員」が制作したホームページや発言を鵜呑みにしやすい

・なので、基本的には、インターネットの政治談議においては、「実名をちゃんと公開して責任を持った立場で発言している人」「きっちりと政治にかかわった実績や知識を有していることが保障されている人(学者など)」の制作したホームページや発言以外は、信用するべきではない

・これは、もっとも重要なことである

・しっかりと素性を明かし、責任ある立場で発言をしているわけではない人のホームページについては、基本的に「それは本当なのか」「その主張は本当に有用なのか」「その主張は、本当に法的に問題がないのか」「その主張は議会制民主主義において成立しうるのか」ということを、細かく審査しなければならない

・つまり、インターネットは、新聞やテレビよりは情報量が多いが、嘘もたくさん書いてあるので、素性がしっかりしていなかったり、必要以上にアジった内容のものには、注意が必要だ

・結局結論としては、法律や議会の制度、議会制民主主義の成立過程といった、知識の土台をしっかりと理解してからでないと、なかなか政治のことは真実が見えない、ということである。

・そもそも、議会制民主主義そのものが、非常に複雑な歴史を経て、今の状態として完成に至っている

・考えても見てほしいのだが、ほんの数十年ほど前までは、帝国主義が蔓延し、世界大戦があったのだし、ほんの数百年前は、日本は戦国時代だった

・今のように(ある意味では)平和になったのは、この数十年のことにすぎないのである

・一方で、遠い古代、ギリシャのポリスの時代から、政治というものはあった。

・変わらないものと、変わり続けているものの間で、奇跡的なバランスを取って、国民の生命を守っているのが、政治である(一方で、国民を殺すのも政治である)

・であるので、それが、様々な規則や法規で縛られているのは、バランス感覚を保たせるために当たり前である

・今、政治が一見「ポップ」になりすぎて(または、視聴者がポップさを求めすぎて)、政治本来が、元来有している複雑さが否定される傾向にある

・これは、非常に危険なことである

・この危険を回避するには、結局のところ、「テレビ、新聞、インターネットのホームページを鵜呑みにしない」ことが重要であり、「自分で(テレビ、新聞、インターネットではなく)専門書で法律や議会制を調べて、きっちりとした知識に基づいて自分で分析・判断する」ことが一番大切である

聴いていて、なるほどな、と思った。

たしかに、一理ある。

既存のメディアが情報を流す時に、説明不足なのは事実だし、インターネットはインターネットで、匿名性が高いから、嘘が多すぎる。

結局信用できるのは、自分で実体験した知識と、専門書の専門的な知識のみということである。

おれも、きっちりと常に専門書を読んで勉強せねば。

知識だけのひ弱君にならないためにも、根性と勇気も磨かなくちゃだけどネ。

知識・根性・勇気ってのは一体になってると俺は思うんだ。

知識が欠けていたら、ただの蛮勇になる(間違った方向に費やされる正義や勇気ほど迷惑で危険なものはない)。

根性が欠けていたら、何も継続できない。

勇気が欠けていたら卓上の理論になる。

根性と勇気が行動力を生み出し、その行動の軌道を間違えないようにしっかりと修正するのが知識なんだ。

人に迷惑をかけていないか、自分よがりになっていないか?

それをチェック合うるのも、一つの勇気なんだ。

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