守口市議会議員の服部浩之です。
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忙しくて全然時間が取れないのですが、ちびちびと村上春樹の「ダンス ダンス ダンス」を読んでいて、先日読み終わりました。
で、いまは、電車などの移動時間を使って、阿部和重の「シンセミア」を読んでいます。
こちらはめっぽう面白くて、速攻で一巻を読み終わってしまいました。
これらについてちょっと書こうかと。
作品を読んでいない方でも楽しめるように書くつもりです。(笑)
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阿部和重も村上春樹も、僕が高校生のころにどっぷりとはまっていた作家です。
村上の方は、僕が高校生のころには、「ねじまき鳥クロニクル」が大ヒットしていて、もう大作家でしたが、阿部和重の方は、「インディヴィジュアル・プロジェクション」が文庫になったばかり。
まだまだ有名じゃないし、若いし、私の祖父の実家と同じ山形出身ということで、親近感や「俺たちの時代の新しい作家だ」という意識を感じていました。
ちなみに「インディヴィジュアル・プロジェクション」の文庫版のあとがきを、今考えるとすごい話ですが、東浩紀が書いていました(このころの東浩紀って、まだ「動物化するポストモダン」を書いてなかったんじゃないでしょうか。美少女ゲーム論で非常に有名になるのですが、もともとは東大卒のフランス現代思想研究者でした。確か、柄谷行人に認められてデビューしたんじゃなかったでしょうか。最近は小説を書いたりアニメのシナリオも描いているようですが、未読・未見です)。
以降、阿部和重の小説は、「ニッポニアニッポン」「アメリカの夜」「グランド・フィナーレ」など、出版されると(過去の作品の文庫化も含めて)ざっと読んできたのですが、最高傑作と言われてる「シンセミア」は、全4巻と長大で、なんだか「カラマーゾフの兄弟」みたいな作品らしいぞということで、敬遠してしまって読んでいなかったのです。
それが、読んでみると、素晴らしく面白い。
まだどういう結末になるのかわからないのですが、村上春樹の「ダンス ダンス ダンス」の後に読むと、なおさら差が感じられて、面白いです。
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一方、村上春樹の方は、僕は20代の初めごろまでに「ダンス ダンス ダンス」以外の(その時点で出版されていた)ほぼ全作品を、読んでいました。
高校生のころにどっぷりとはまり、その後、ライターになった時に先輩だったTさんも春樹ファンだったので、読む意欲が強かったのです。
その時に、「もう、残っている(未読の)長編は「ダンス ダンス ダンス」だけかぁ。なんか、読んでしまうと、楽しみがなくなってしまってさびしいな。読まずにとっておこう」と思ったのです。
で、「ダンス ダンス ダンス」だけしばらく読まないことにしました。
が、その後徐々に関心が薄れ、「神の子供たちはみな踊る」までは新刊が出ると読んでいましたが、「海辺のカフカ」以降は全く彼の作品を読まなくなりました。
で、「もう別に楽しみにとっておくも何もねぇな」とふと思って、去年の松ぐらいから「ダンス ダンス ダンス」を読み始めたのです。
で、読んでみると、高校生ぐらいのころは、深い共感を感じながら読んだはずの春樹作品ですが、いまの感性(29歳の感性)からは、「うわっ、なんだよ、この中二病の主人公はっ!!」と感じられるのでした。
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簡単に感じた特徴を書いておきます。
1、この小説の主人公は、かつての自分を取り巻いていた環境への憧憬を抱えて、「良くない世界」に生きていると思い込んでいる
・主人公は、関西(西宮市あたり)から大学進学で東京に上京。そのまま東京でフリーランスで仕事をしていて、離婚経験のある34歳。
・かつての牧歌的だった関西時代(高校生時代)に対する執着が強い
・また、60年代の「反抗の時代」の精神を吸収して成長したことが誇りである
・そのため、いまだに(舞台は80年代)60年代の音楽を聴き、音楽に思想性を求めている
・60年代を自傷的反抗の時代ととらえて憧憬を感じ、それゆえに、今自分が暮らしている80年代を、「なんでもシステム化・合理化され、高潔な精神が失われ、誰もが楽をしたがっている軟な時代だ」と批判する
・つまり、主人公は「失われたものを保守しようとしている」人間である
2、店舗は出てくるが、町は出てこない
・この物語の大半の舞台が、都市あるいは都市近郊の「店舗・家屋内」である
・主人公は、実にいろいろな場所に移動し、それゆえに、現代的な都市小説に見えるが、その移動手段はたいていが車で、描写のほとんどは室内である
・したがって、もしもこの作品に従って地図を作ると、かなり大雑把な地図になる。大雑把な道路でつなげられた、いくつもの家屋の地図になるだろう
・要するに、一見、さまざまな場所が登場し、都市をよく描いているように見えて、その町がどのような道をなしているかの情景が、ほとんど浮かんでこないのである
3、一人称小説であることを巧みに利用して、「あいまいな話者」であることを隠している
・この小説には、一見荒唐無稽な、超常現象的な出来事がいくつか起こる
・しかし、この小説はあくまで、一人称(僕)で語られている
・ということは、すべては「僕」の主観であり、「僕」によって語られている描写が、正しいとは限らないのである
・この、「話者の信用度のあいまいさ」を巧みに利用して、幻想的な小説に仕上げられている
・また、①で述べたように、主人公が、狭心的で過去への憧憬が強い性格であるがゆえに、この物語の「語り」がどこまで信用に足りうるものであるかがあいまいになる
4、過去への憧憬が、この作品を「ライフスタイルを提示する作品」に仕立てている
・世の中には、読んでいて「この小説のようなライフスタイルにあこがれる」という小説と「こんなライフスタイルは嫌だ」という小説の二種類がある。
・阿部和重の小説を読んで「こんなふうに俺も生きてみたい」と思う人は少ないであろう。「暗夜行路」や「夏の闇」や「恩讐の彼方に」を読んで、「あこがれるなぁ」とつぶやく若者はいないであろう。
・一方「坂の上の雲」や「宮本武蔵」なら、あこがれる人もいるだろう。レイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウものを読んで「俺もこんなふうにふてぶてしく生きたい」と思う青年だっているだろう
・村上春樹の小説も、一般的には、この「あこがれのライフスタイルを提供する」スタイルであるといわれている
・「神戸の近くで青春期を過ごし」「知的で」「いまは都会(東京)に暮らし」「一人で自立して生きていて」「軟になった80年代においても、自分のスタイルを貫いている」あたりが、「一見格好良く見える理由」だろう
・実際、中国沿岸部では村上春樹ブームのおかげで春樹的生活スタイルにあこがれる若者相手のビジネスすらあると、日経の記事で読んだ覚えがある
・しかし、いみじくもかつて、蓮見重彦が「村上春樹の小説は、素人が探偵の真似事をする小説で、そんな主人公は誇大妄想的であり、はた迷惑な奴である」という旨の批判をしたように
・あくまで主人公は、現代のフィリップ・マーロウ気取りではあるが、ようはただの都会で暮らすフリーターにすぎず、事件を調査する才能は皆無(というかド素人)であるはずである
・つまり、この小説は、一見、格好いい神戸育ちの自由な都会生活者が謎の事件に翻弄されていく小説のように見えるが、
・読み方次第では、東京での生活にストレスのたまった関西人フリーターが誇大妄想的に事件(っぽいもの)に首を突っ込んでいくだけの変な小説であるともいえる
・ネックは、この小説が一人称なので、なんでも主人公の都合のいいように解釈されていくから、まるで大事件が起きているかのように描写することができるという点である
・例を挙げてみよう
3人称なら
『一階で妻が電子レンジを使ってしまったために、ブレーカーが落ち、一時的な停電になった。二階にいた武雄は、そのことに気が付かず、慌てふためいた』
という文章であっても、これを武雄の一人称にすると、
『台風というのでもないのに、唐突に灯りが消えた。そんなはずはないのだ、と僕は思った。誰かが、どこかで何かの理由で、この部屋の灯りを消したのだ。その可能性は、大いにありうる。僕は、息をひそめ、そっと窓の方に移動した。それから、一階にいる妻のことを想った。彼女はどうなったのだろうか。大丈夫だろうか。もしも何か彼女の身に起こっていたとしたら……。そう思うと、背筋に寒いものが走る思いがした。しかし、待てよ。今ここは、動くべきかどうか、判断の付かない時間なのだ。ここで下手をすれば、命取りになる。僕は、そっと窓を開け、できるだけ音をたてないように気をつけながら、外の様子をうかがった』
と、書けてしまうのである。
これが、一人称の記述の恐ろしいところである。
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まぁ、そんなわけで、僕は、この小説は随分とよくできた中二病小説だと思うのである。
いや、面白いんだけどさ。
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余談。
昔から小説でも映画でもなんでも、上記の「あこがれのライフスタイルを提示する作品」/「あこがれのライフスタイルを提示しない作品」がある。
ちなみに、勘違いしてほしくないのだが、前者が優れていて、後者が優れていないというわけではないのである。
むしろ、「あこがれのライフスタイルを提示しない作品」の方が、社会的意義を深く持ち合わせた名作は多いぐらいである。
例えば、大江健三郎の「飼育」を読んで、あんなふうな農村に暮らしたいと思う人はまぁほとんどいないだろうけれど、作品としては文句なしに、圧倒的なオーラを放っている。
60年代ごろに流行したイタリアのネオ・リアリズモの作品群だってそうだろう。
誰があんな風な息苦しい生き方をしたいだろうか。
それでも、作品としては、社会に対して提示するべきメッセージを強くはらんでいたし、それを見る人に対して、ガツンッ!と攻撃してくるようなものすごさがあった。
つげ義春のマンガだってそうだろう。
「あこがれのライフスタイルを提示しない作品」というのは、これはこれで、渋くてかっこいいものなのだ。
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一方で、先日「空気系アニメはなぜヒットするのか」という本も読んだんだけど、この本はちょっと統計学的な本なので、別にそんな分析は書いてなかったので、僕の勝手な想像だけど、「けいおん!」がヒットして、澪の真似してベース買う人がたくさんいたり、「らきすた」を見て、聖地巡礼したりする人がいるのって、これらの作品が、「あこがれのライフスタイルを提示する作品」だからだと思うんだよね。
「ひだまり」みたいな、内容的には何にもない作品が大ヒットして4期も作られるのも、やっぱり「俺もあんな生活してみたい」と思うからだと思う。
俺が、阿部和重がもと蓮見のゼミにいて、しかも映画館で働いていたらしいと聞くと「うわー、かっこえー、あこがれるぅ」と思うのと同じで、「うわー、美術学校かよぉ、いいなぁ、あこがれるぅ」ってのがあるんじゃないの?
だから、「日常」があんまりヒットしなかったのは、シュールすぎて、「あこがれのライフスタイルを提示する作品」になりえなかったからだと思うんだよね。
え?「ハルヒ」はSFなのにヒットしたじゃんって?
あれは背景美術がリアルだったからヒットしたんだと思うんですよ。
現実の尼崎の商店街とかをそのまま流用していたでしょ。
そのおかげで「あ、こういう世界あるかも」と思わせることに成功したんだと僕は思うのです。
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僕個人の意見としては、「あこがれのライフスタイルを提示する作品」ばかりがヒットするのは、あまり社会の傾向として、いい傾向ではないと思うんですよね。
それだけ、
・社会が鬱屈している
かつ、
・手軽に娯楽で、逃避したがっている
証拠だと思うから。
本当は、社会が鬱屈しているときこそ、「鉄道員」とか「地下鉄のザジ」とか「砂丘」とか「崖」とかみたいな暗い救いようのない映画を見て、身を引き締めるべきだと思うんですよね。
でも、「そんなもん見てられるかよ。こちとら一日中仕事で疲れてるんだ!帰ったら罪のない(内容もない 注:だから悪いわけではない。内容がない「からこそ」癒されるのだ)アニメでも見て癒されて寝るだけで十分だよ!」って気持ちもよくわかる。
非常によくわかる。
でも。
でもだよ。
やっぱり、たまにはちょっと暗いリアリズム映画を自傷的に見るのも、社会システムの機能回復的にはありだと僕は思うんですよ。