はっとり浩之オフィシャルブログ

2013年9月29日

無難なロックじゃ楽しくない(新聞と知識、運動会、スリランカ、共食い、中2病)

カテゴリー: 未分類 — hattori @ 12:49 AM

今日は、運動会を見学させてもらって、スリランカ人の方からスリランカについて学ばせてもらって、そのあとムービックスで友達と映画「共食い」を見てきた。

スリランカ人の人から、「スリランカでも最近、引きこもり、パソコンおたくが増えている」と言われたので、ちょっと興味がわいて、「へぇ、じゃぁ、部屋にこもるんじゃなく、逆にアクティブで、ゲーセン通いとか、ヤンキーとか、ツッパリとか、そういう、方向性の若者もいるの?」と尋ねてみたら、嫌悪感もあらわな表情で、「うちの国にはそんな人はいません。タトゥーぐらいはいるけど、金髪に染める人間はいません。そんな人がいたら、すぐにしょっ引かれます。日本は自由すぎます」的な回答が返ってきた。
ふぅんって感じ。
タトゥーよりも金髪に染める方が不謹慎なのか、とか、結構見た目で判断してるんだなぁ、とか、じゃぁ、スリランカ人に「男塾」とか「男組」とか「ハイスコアガール」とか、あるいは小池一夫のマンガとか見せても理解されねーのかな、とか思って、面白かった。
これぞ異文化交流!

「共食い」は、CMがめちゃくちゃ出来がよかったのと、監督が青山真治なので、期待して見に行った。
結果的には結構満足いけた。
まぁ、なんちゅうか、山口の海辺の町のぐちょぐちょした時間感覚が、身に染みてくる。
あと、ことごとく、見ていて「こうなるんだろ、次の展開」と思っていたのが裏切られて、退屈しなかった。
例としては
・千種はNTR→凌辱
・親父は息子が殺す→おかんが殺す(しかも、まさかの義手で!)
.遠馬が恩赦を計算に入れて琴子を殺す→そんなことはおこらなかった
・千種が親父の子供を孕む→そんなことはおこらなかった
といった具合に、ことごとく想像を裏切る展開。
まぁでも、ドラマチックになりすぎないのが、この作品のミソだ。
淡々と流れる時間観が、昭和天皇御崩御前後という時代設定とともに、「大きなトピックスの裏で、寒村で起こっていた小さな事件、物語になりえない、人々の人生」といった風情で、ほっこりときた。
あと、主人公の遠馬君の、イニシエーションというか、地獄巡りと成長譚といった風情で、素敵だった。
これが、俺の予想みたいに、琴子さんを殺していたりしていたら、もっとピカレスク的になってしまって、さわやかな印象は残せなかっただろう。
見事なバランス感覚で、見る者に爽快さを与えている、稀有な映画だと思う。
しかし、一緒に見に行った友人は、「超つまんねー映画だった。先日見に行った中2病の映画版と同じぐらいにつまんなかった」と発言。
「え? マジで?」と思った。
俺的には、映画中2病が1点(だって、ただの継ぎ接ぎ総集編じゃん)だとすると、共食いは5点ぐらいの点数格差があるんだけどなぁ。
まぁ、あえて、共食いのマイナス点を述べるなら、短すぎた、という点だ。
青山真治監督の作品は、時間の流れが緩い。
それゆえに、2時間の映画では、ストーリーが単純になりすぎる。
往年の「ユリイカ」みたいに、もっと尺を長くして、複雑な物語にするべきだったかも、とは思う。
友人にそう告げたら、「いや、これ以上長くなるのは、もう勘弁。普通に退屈だった」と言われた。
なるほど。
こりゃ、完全なる意見の相違だな。

先に述べた、「地獄めぐり」だけど、僕は昔から、『少年は、さまざまな地獄を体験して、大人になっていく』という持論がある。
今日、運動会に行った際に、校長先生と偶然に話す機会があって、「子供に残酷な映画を見せるべきか否か」という議論になった。
僕は、断然、見せるべきだと思っている。
殴られたら、血が出ること。
銃を撃ったら、人が死ぬこと。
そういうことを、きっちりと、映像を通じて、教えるべきだと思う。
一方で、先生は、そういう過激な作品は、悪影響を子供に与えるという立場に近い様子だった。
僕は、「それは、違う。現実というものの怖さを、疑似的でもいいから、教えるべきだ。殴られたら/殴ったら血が出ることをちゃんと隠さずに教えることで、他人に暴力を振るわなくなる」と述べた。
先生は「それはそれで理想論だ。教師の教え方の巧さによる」というような旨を述べた。
俺は、なるほどな、と思った。
たしかに、そうだ!
勉強になった!

ちょっと、びっくりしたことがある。
とある人に、会った途端おもむろに「守口市には副市長がいない!お前の責任だ!お前が怠慢だからだ」というようなことを、怒鳴りつけられた。
俺はびっくりした。
あまりにも根本的に間違っているし、ただの言いがかりに過ぎないレベルの言葉だったからだ。
行政から一度も、副市長人事案件について、提案を聴いたことは、俺は一度もない。
審議会が開かれたこともない。
それとも、俺が副市長を指名しろとでも言いたいのだろうか?
それこそ、政治による行政介入になってしまうと思うのだが。
都市開発に対する提案は、俺は、ちゃんとしている。
しかし、人事に対する介入は、全然種類が違う。
あまりにも意味不明なことを唐突に怒鳴りつけられたので、「意味が分からない。行政の人事案件に政治は介入すべきじゃないと思う。腐敗のもとになる。それ以外の都市開発の提案は、俺はちゃんと行っている。広報を見てくれ」という旨を伝えた。
すると彼は今度は、「お前は新聞を一切読まないらしいな! お前はけしからん若造だ」というような罵りを俺に向かって始めた。
俺は、「あぁ、この人、なんか知らんが、かってな噂話とかを実態も見ずに鵜呑みにしてるんだな」と、悲しくなった。
俺は、普段、テレビを一切見ない。
これは、信念をもって自分に課していることである。
テレビは、情報を得るには手っ取り早くて楽な手段だが、映像やコメントが入る分、湾曲された情報になる率も高い。
同じような情報を、新聞なり、ネットで新聞のヘッドラインを見るなりすれば、十分に得ることができるし、映像のバイアスがない分、公平さが増す。
だから、俺はテレビを見ない。
楽をしたくないし、自分にバイアスをかけたくないからだ。
このことは、誇りを持って公言している。
しかしながら俺は、新聞は毎日3紙読んでいる。
おそらく、この、急に俺に喧嘩を売ってきた男は、俺がテレビを見ないということを、誰かから湾曲して聞かされて、「新聞を読まない」と伝え聞いたのだろう。
勝手に思い込むのは勝手だが、いい加減な情報をうのみにして、本人に怒鳴りつけないでいただきたいものである。
かなり腹が立ったので、「根本的に間違っている。俺はテレビは見ないが、新聞は読んでいる」と俺は答えた。
すると、男は、自分の分が悪くなったと思ったのか、捨て台詞のように、「わ、悪口を言ったわけじゃないぞ! お前に喝を入れて激励をしてやろうとしただけだ」と言って、去っていった。
なんというか、情けなさすぎる。
大人として、どうよ?と思った。

それにしても、上記の出来事で、一番気になったのは、男が、「新聞を読まない若造が多い」「新聞を読まない若造はバカだ」と思っている節があったことだ。
僕は、仕事柄一応新聞を読んでいるが、基本的に、新聞の記事内容はあまり信用していない。
というか、あまり信用していないからこそ、多角的に読むために、3紙ほど読むことにしている。
これは、俺が昔行きつけだった難波の音楽喫茶バロックの店長が物知りで、「なんでそんなに物知りなんだ?」と俺が問いかけたら、「バカ、ここは喫茶店だぞ。新聞は4誌すべておいてある。俺はそれを毎日全部読んでいる。だから、新聞ごとの情報のばらつきやバイアスも全部わかる。一紙だけ読んで崇拝してるやつはクズだ」と教えてくれたからだ。
それでも、新聞も、文屋が書く以上、文屋に都合のいい記事にあふれている。
どの情報をいつ載せるか、という判断にバイアスがかかるし、論説なんて、バイアスかかりまくりである。
俺自身、かつてはメディア業界の一端にいたから、よくわかる。
メディアなんてもん、本気で無垢に信用したら、あかん。
あいつらかって、商売や。
だから、俺は、俺なら、「俺は一切、新聞もテレビも見ません」という若造がいたら、尊敬するね!
「おほ! お前、ニヒルじゃん。世の中の仕組み、よくわかってるねぇ!」と褒めてあげるよ。
絶対に、馬鹿にしねぇ!
絶対に、差別しない!
あれを持っていなくても、差別しない!
つ・き・あ・い・た・い!

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